織田信長の思考法
信長はどんな発想法をしていたのか?
戦国大名というのは、常にギリギリの状況で状況判断を迫られるので、
常に最悪の事態を想定して行動するわけです。
戦国大名でも有能な大名は常に、最悪の事態を想定して長期的視点で、
計画を立てて行動しました。
楽観的に考えて、場当たり的に生きた大名は、ごく一部の例外をのぞいて、破滅しています。
ごく一部の例外とは「小田氏治」です。
しかし、織田信長は違いました。
織田信長は基本的に夢を描きません。
あくまでも、現実を状況として想定します。
夢や希望ではなく、
自分の目的を実行するためには「何が必要なのか?」
それを合理的に想定します。
そして、
三つの想定を用意します。
実際に行動を起こした場合に
「最悪の事態が起きた場合、どういう行動をとるべきか」
「順当に行動が成功したらどうすべきか」
「運よく、うまくいったらどういう行動をとるべきか」
つまり、無茶苦茶うまくいった場合でも、喜ぶのではなく、
その状況を生かしてどういう行動をとるか考えるのです。
凡人は、自分が成功したことを想像すると、それで幸せな気分になって
それで終わります。
信長は違います。
もし、運よく、ものすごく物事がうまくいった場合は、その状況を生かして
どんな行動をとるか、「具体的に」考えるのです。
それが、信長の行動原理です。
想像や想定は、夢を見て気分よくなるために想像するのではないのです。
最悪の状況であれば、どういう行動をとる。
順当にいったらどういう行動をとる。
最高にうまくいったら、どういう行動をとる。
これを常に家臣にも言い聞かせていました。
だから、桶狭間の合戦で最高の成果をあげたとき、
その状況を最大限に生かすことができたのです。
これを信長は長期的にやり続けていたのです。
だからこそ、朝倉攻めで浅井が裏切った場合も、冷静にすぐに
逃げる決断ができたのです。
また、その危機を乗り越えたあとの朝倉攻略戦では、
信長は「我々が攻めたら、朝倉は総崩れになるから、その状況を生かして一気に攻めるように」
と家臣たちに言い聞かせています。
しかし、家臣たちは戦国時代の常識である「最悪の状況を想定して行動する」
にとらわれていたので、
朝倉が総崩れになっても、すぐに行動することができませんでした。
これは「どうせ、そんなにうまくいくはずがない」という最悪を想定するとういう戦国時代の
常識にとらわれていたからです。
このことで、織田信長は家臣たちを烈火のごとく叱責します。
しかし、このとき、佐久間信盛が「自分たちほど最高の家臣はいませんぞ!」
と信長が一番嫌う「楽観視」「自分たちの自慢」を行ったので、最終的に
佐久間信盛が排斥される結果につながります。
織田信長が一番嫌ったのは「自分が想定したバイアスにととらわれること」です。
それが亡びへの道だと知っていたからです。
だから、
常に信長は
「最悪の時代が起こったとき」
「順当に物事が動いたとき」
「最高の結果が得られたとき」
を考え、
ただ、考えるのではなく、その状況が起こったとき
「何をするか?」をつねに
具体的に想定したのです。
これを
「下策」
「中策」
「上策」
と言います。
このように、
将来への想定は自分の夢を描き気持ちよくなるためにするのではなく、
それが実際に現実に起こるということを想定し、
具体的に
「それが発生したときに何をするべきか?」
を考えたのが信長なのです。
将来に対する想定は
「夢を描く」ためにするものではない。
あくまでも、それが「現実に発生する」と過程して、
どのような事態が発生してもそれに対応できるように、
色々な場面を想定して、頭の中であらかじめ選択肢をいくつか用意しておく。
そうした模擬思考を用意していくことによって、
実際にそれが起こったときに冷静に判断できる。
それが織田信長の思考方法である。




