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織田信長の行動記録  作者: 楠乃小玉
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若き日の信長の行動範囲

若き日の信長が親しくしていた勢力は何か?

ほんとうに若い頃、織田信長がどのあたりを徘徊していたか、

尾張各地に残る逸話を探していくと、色々と見えてきます。

織田信長が若い頃は、山口飛騨守や加藤弥三郎の居住地域の近くをよく徘徊していたことがわかります。

その一つの痕跡が長寿井戸。


ここは、信長が若い頃によく立ち寄って水を飲んだ井戸です。

南区にあり、星崎の山口氏の所領の近くです。

またこの南区には大江駅があり、大江の港があります。

その大江の港を管理していたのが大江近くにある

山崎城。

ここは加藤弥三郎が城主であったという逸話がのこっており、

この城跡の隣には佐久間信盛が建立した神社があります。


佐久間氏の所領は御器所にありますが、

信盛の所領はこの山崎のあたり。

信盛の一族が信秀の時代まではけっこう佐久間氏の中でも傍流であったことがわかります。

この地域は塩分が多い地域で植物が育ちにくく、塩田が主な収入源でした。

しかし、川の河口が近かったこと熱田が近かったことなどから

佐久間信盛の勢力は盛り返します。

元々、川の河口というのは貧乏くじなわけです。

上流が一番きれいな水が飲める。河口に近づくほど水がよごれてくる。

使い道がなくなってくる。

しかし、革の加工の行程で必ず水でさらさなければならなくなる。

しかも、塩と油を使うので、その作業を行った先の水は飲み水として使えなくなる。

よって、河口でなければ、その作業ができないわけです。

そこに、塩の製造を生業とした佐久間信盛がいた。

熱田では、鎧を使うのに、必ず革紐を必要とした。

当時、合戦のたびに鎧の革紐は固く結んで膠で固めたのです。

つまり消耗品。

軍事物資の消耗品なわけです。

その革を製造する過程でかならず塩と油と水が必要となる。

油は石清水八幡宮の座である山崎からくる。

油は熱田湊から入り、石清水八幡宮の荘園である明智荘に送られる。

それを取り仕切っていたのが斎藤道三で、

明智荘から長良川を通じて津島に荏胡麻油の材料である荏胡麻を津島湊に送り、

大山崎で油に加工して明智荘まで運んで、そこで油商人が近隣に売り歩く。

そういう関係性があったからこそ、

織田信秀が斎藤道三を不意打ちして美濃に攻め込んで敗退したにも関わらず、

道三は信秀を許し、信長に自分の娘を差し出すことになったのです。

そして、信長はこの油をとりまく軍産複合体熱田衆と塩田を形成する山口や佐久間と親しかったのです。

このことが織田信長が尾張を掌握するにあたって、大きな利点となった。

若き日の信長をしのぶのであれば、

長寿井戸と山崎城は押さえておくべきポイントです。

もちろん、私は御器所神社も山崎城も長寿井戸も行きました。

(実は、長寿井戸だけ近くまで行って見つかりませんでした)

甲冑など軍事物資を製造するのに必須な油と塩と川の河口。

これらを持っている勢力と信長は親しくしていた。

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