表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
織田信長の行動記録  作者: 楠乃小玉
12/47

歴史業界のバイアスの恐ろしさ

歴史のバイアスにとらわれた人たちの恐ろしさ。

歴史業界のバイアスの恐ろしさについて語ります。

歴史学会は文系に分類されてきたため、

科学的分析結果や発掘結果、物理的証拠が軽視されがちな傾向があります。

たとえば、「トロイア戦争はホメロスの創作」という言説は

ハインリヒ・シュリーマンの発掘によって覆された。


桶狭間の合戦でも、何確証もなく

「今川軍4万人は多すぎるから1万人で」とか

何の証拠もなく断定され、それが既成事実化したり、

織田信長は専業軍隊を持っていたから農民軍の他勢力より有利だったとか、

専業軍隊なんてどこの国でも持っていた。とか


私自身は戦国時代の建築業について語ったとき、

「戦国時代に建築業者なんてなかったんだよ、あんた、バカ?」

と某エライ人に言われた事があります。

建築業は飛鳥時代から金剛組があるんですが。

そんな説明も、固定観念に凝り固まった人の耳にはとどきません。

その某偉い人の言説によると、「戦国代は何とか衆とかいうのが居て、寺から派遣されていたから

建築業はない」とかどうにもおおざっぱな事を言っておられましたが、

それは石工集団の穴太衆の事です。

建設業は当時、番匠といい、実際に存在していました。


信長の軍隊の優れていたところは、小牧山城の発掘調査で見つかった兵舎です。

当時、歩兵の専業集団は存在しました。

彼らは加世者と呼ばれる雑兵傭兵集団であり、その起源は骨皮道賢であるといわれています。

よって、どこの国の軍隊でも、傭兵による専業軍隊と契約でき、

農繁期でも戦争はできました。


しかし、信長は雑兵を雇用して、正規社員として使ったのです。

他の国は臨時雇用のアルバイトとして雇用していました。


専業の正規社員としていたという根拠は小牧山で雑兵用の弊社が発掘されたらことです。


ここで話を桶狭間に戻します。


実は、後の太閤検地によると、駿河、遠州、三河の三国と尾張一国のコメの取り高は

ほとんど変わらないのです。


兵の動員可能数は米の取れ高によって決まりますので、

織田と今川は、ほぼ同数の兵数を動員できます。


しかし、織田信長が桶狭間で動員した兵数は動員可能兵数よりもあまりにも少なすぎ、

今川方はあまりにも多すぎる。


どうすればこうなるのか。


これは、両国の軍の組織構造や東海広域の発掘調査の結果を把握していればわかることです。


「今川氏の研究」

によると、三河ではインフラ整備がされておらず、治水の悪さから水田耕作地が

非常に少なかったことがわかっています。

また実際に取材旅行に行くと、戦国時代当時の道が残っている場所に行くと、

きわめて整備がずさんで、道路整備にも力を入れていないことがわかる。

また松平清康が当時の座の元締めである猿投神社を焼き討ちし、

当時、「大阪並み」の掛け声とともに市場開放主義を叫んでいた

一向宗徒が大量に三河に流入している。


これらの状況から見て、今川方は、インフラ整備費用を削減し、国主がせっせと

現金をため込んでいたことがわかります。


なぜ、そんな事をするかといえば、

米の取れ高が少なくても、

常備軍を少なくし、いざ、戦争になったら、臨時雇用の傭兵を雇えば、

少ない経費で大勢の兵を雇うことができます。


当時の兵法のセオリーは「戦争は数が多いほうが勝つ」です。

この教科書どおりの兵法によって、今川方は必要経費を削減し、

緊縮財政を行い、

蓄財を行って、いざ戦争になったとき、

敵を圧倒する大兵力を動員できるようにしたのです。

米の取れ高が少ないと、日頃から常備兵を行って多数養っていくことはできませんから、合理化を

行い、常備兵は少なく、いざ、戦争が起こった時は、傭兵によって兵力を水増しする。


そして、そうしなければ、今川の石高で、桶狭間に4万の大軍は動員できません。

不可能です。


反対に信長のほうは、赤母衣衆、黒母衣衆を育成し、兵士も正規雇用しました。

そうした正規雇用の雇用体系だったからこそ、

弟、織田信勝が圧倒的に多数の軍隊を動員して戦った時も

少数の織田信長が勝っています。

通常、合戦で少数が軍隊が勝つことはありえません。

この場合も弟の信勝は当時のセオリーに従って、多数の傭兵を雇用していたのでしょう。

織田信長は、常に小さい合戦で自分の論理の実用性を実験し、それに成功すると

次のステップにうつっています。

弟のと闘いも、その実験の一つであったと思われます。


織田信長の軍隊が今川より士気の高い精鋭部隊であったことは、

松平軍の斥候が今川義元に報告していますが、

今川方はそれを一笑に付して見逃しています。


織田方は正規雇用の士気が高い軍隊であったからこそ、

織田軍は自分たちより数倍の軍隊を恐れず、突っ込んでいったのです。

雑兵が臨時雇用の傭兵であった場合、確実に逃げます。


事実、今川軍は自分たちより少数の織田軍が突っ込んできたとき、

力を合わせれば確実に勝てる状況であるにも関わらず、大勢が逃げ散りました。

また、今川義元は、4万の大軍があれば桶狭間山の陣地で

悠然と構えていればいいものを、急いで、大高城に逃げ込もうとしました。

なぜか?

相手が死を恐れず、突っ込んできた場合、死にたくない傭兵部隊はこぞって逃げ散り、

今川本体の少数しか残らないことを今川義元は理解していたからです。

その逃亡中に今川義元は織田信長に補足され打ち取られました。

今川が大高城に逃げ込めば、義元の身の安全は確保され、

逃げ散っていた傭兵たちも戦線に復帰していたでしょう。

そうなれば、織田信長に勝ち目はありません。

そういう意味では桶狭間の合戦は織田信長の運がよかったともいえます。

しかし、その運をつかむ前段階として、極めて長い時間をかけ、構想をたて、金と時間をかけ、

小さな実験を繰り返して、確証を得たうえで信長は行動しているのです。



歴史は文献だけではなく、発掘調査の結果、科学的検証、実際に現地に赴いての取材と調査が

なければ、状況を把握することはできない。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[気になる点] >弟のと闘いも、 は >弟との闘いも、 の 誤りかと思いました。勘違いだったらすみません。 [一言] >織田と今川は、ほぼ同数の兵数を動員できます。しかし、織田信長が桶狭間で動員…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ