2 森と狼
幸い喚び出された村はどうやら中立地域にある魔族の隠れ里だったらしい。
この世界には幾つかの勢力がある。
まず一つ目が強力な魔族が周辺地域を統率している魔族領。当然その強力な魔族は降臨魔族、つまりは魔王である事が多い。
二つ目が魔族では無く強力な力を持った魔物が支配する魔物領。まあこの場合も統率者である魔物を魔王と呼ぶ事もあるので、魔王って言葉は広義の意味では魔を統率する者全てを指す。
そして三つ目が人間の王国の支配下にある人間領だ。
凡そこの三つが大規模だったり小規模だったり、間に中立地域を挟んだりしながら入り混じってこの世界を構成していた。
では何故中立地域で良かったと思ったのかと言えば、一つ目の魔族領だった場合は、まあ当然ながら自分の支配地域に別の魔王が湧いて出たら、その地の支配者は良い気はしないだろう。
其処の支配者が降臨魔族であったなら、同じ母を持つ兄弟姉妹として話し合える余地はあるだろうが、そうで無かった場合はかなり高い確率で揉める。
だがもし魔族領なら、そもそも村が人間に襲われずに我が喚ばれる事も無かったかも知れない。
まあif、もしもの話はさて置き、二つ目の魔物領であった場合を語れば、……大体の魔物領は力だけが支配する無法地帯なので、強力な魔物の襲撃を常に警戒する必要があるのだ。
そんな場所に喚び出されて居たら、村を襲った人間を追跡するよりも先に、先ず生き残りに必死にならねばならなかったと思う。
尤も最後の三つ目、人間領の場合に比べれば魔物領の方がまだマシである。
人間領は言う間でも無く敵地だ。しかも彼等は己の領域内に道を張り巡らせるのが好きで、移動に馬車も使うのだ。
敵地を乗り物で移動されれば、流石に魔王たる我でも追い付いて襲撃を仕掛けるにはそれなりの苦労を強いられただろう。
だが今現在、助けを求める声の移動速度は遅く、襲撃者と捕まった魔族の女子供は森の中を徒歩で移動していると考えられた。
故に追い付くは容易く、尚且つ襲撃のタイミングもある程度は自由に選べる。
此れは戦力的に不安のある我にとっては大きな幸運だ。
上手く襲撃のタイミングを選んで、群れから逸れたり油断している個体を先に狩れば、降臨したばかりの我が存在の格、レベルを上昇させる事も可能かも知れない。
レベルが上がり能力が上がれば、襲撃者の人間に対抗出来る可能性は格段に上がるだろう。
そんな事を考えながら森の中を、助けを求める声へと向かって歩いていると、僅かな血の匂いを鼻先が捉えた。
血の匂いが漂って来るのは、進行方向。ドキリと心臓の鼓動が跳ね上がる。
遅々とした移動に苛立った人間が、村の子供を切り捨てでもしたのかと不安になったのだ。
ただでさえこの世界に出て来た時には既に多くの同胞の命が失われていた。
無論其れを悔いはしない。彼等の力が弱かったが故の結末だったと、割り切る事だって出来る。
でも我がこうして出て来た以上は、今連れ去られている者達は一人残らず我が民となる予定だ。
失いたくないと思うし、救える者は救いたいとも思う。
魔王とは強欲な存在であるが故に。
辿り着いた惨劇の現場に転がっていたのは、けれども魔族では無く、全滅した狼の魔物の群れだった。
此処で移動中の人間達に襲い掛かり、そして返り討ちにあったのだろう。
魔物達には申し訳無いが、骸が魔族の物で無かった事に思わず安堵の息が漏れる。
だがその時、視界の隅で何かが動いた。
其れは此方の気配に気付いて意識を取り戻したのであろう、全滅した群れのリーダーと思わしき一際サイズの大きな個体だ。
他の個体よりも実力、生命力が優れていたが故に、同程度の傷を負っても命を失わずに済んだのだろう。
けれど其れは、決してこの個体にとって幸いだとは言い難い。
狼の魔物は此方を警戒しながら立ち上がろうと力を振り絞り、そして力足りずに崩れ落ちる。
命を失っていなくても、此処まで深い傷を負ってしまえば、生命力の強い魔物であってもどの道森では長くは生きられない。
集落や自分だけの家を持ち、安全な場所で身を休められる人間や魔族とは訳が違う。
早晩他の生き物に狩られ、糧とされる事は間違いなかった。
そしてこの狼の魔物を糧にする他の生き物とは、例えば別種の魔物であったり、例えばそう、我である。
この狼の魔物、森狼、フォレストウルフは、魔物の中でも下位種にあたるが、それでもリーダー格であるのなら其れを狩れば我のレベルは上昇する可能性が高い。
人間との戦いの前に、安全にレベルを上げられるのなら、其れは間違いなく幸運なのだ。
しかし、己の頭を過ぎるその考えに首を横に振る。
気に食わない。とても気に食わなかった。
同胞を虐殺し、同胞を拉致した襲撃者達の狩りこぼしを喰らって力を付ける事を余りに浅ましく感じたのが一つ。
そして彼のリーダーの周囲で息絶えた他の狼達が、あの村で骸を晒していた同胞達と重なったのがもう一つ。
最後に、あの襲撃者たる人間達にこれ以上何一つ奪わせたくないとの思いが、我が心に強欲な気紛れを起こさせた。
「良い、動くな。力を使えば無駄に死ぬるぞ。今我が治してやろう」
其れは同胞を救う目的には寄り道で、尚且つ無駄な魔力の浪費だったが、己が魔王である為には必要な行為だと思える。
何せ戦闘に役立ちそうなギフトも持たない自分が、それでも魔王だと言い張れるのは矜持があるからだ。
其処を曲げれば、単に少し強いだけの魔族でしかなくなってしまう。
最初は此方を警戒していたフォレストウルフのリーダーだったが、治療を始めれば直ぐに意図を理解し、身体の力を抜いて預けて来た。
少し失礼な物言いだが、下位の魔物にしては驚きの賢さである。
我の扱う治癒魔術は傷口を魔力で覆い染み込ませ、周囲の組織と同化させて埋めるタイプの物で、戦闘中に使える様な即効性は無い。
だがメリットとしては使用する魔力が少なくて済み、且つ被術者の身体に負担が少なめだ。
魔力の放出を止めれば、翳した手にフォレストウルフのリーダーが頭をこすりつけて来る。
此方に感謝をしているのだとは思うが、傷を埋めて繋いだだけなので、出来れば大人しくしていて欲しい。
「動くなと言ったろう。貴様に言ってもわからぬかも知れんが、賦活した細胞が今も修復中だ。もう暫くは寝てるが良い」
立ち上がり、起き上がろうとするフォレストウルフのリーダーを手で制す。
此れだけ知能があるのなら、もしかすれば襲撃者たる人間への戦いにも参加してくれる可能性は高いだろう。
でも其れは望まない。
命を助けた所で、この個体の力が劇的に上昇した訳ではないのだ。
群れを全滅させた相手に再び挑んでも、今度こそ命を落とす事になる。
強欲な気紛れでとはいえ、折角救った命なのだから、出来れば少しでも長く生きて欲しい。
こすりつけて来た頭、毛皮の手触りは些か名残惜しいが、ただでさえ目的外に時間を使ったのだ。
これ以上のんびりしては居られなかった。
「ではな。達者で暮らせ」
移動を再開する。森を行く我の胸には、少しばかりの満足感があった。