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歴史のアロハ  作者: にんべん
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仁者必ず勇あり 里見義堯 前編

里見義堯(1507-1574)

激戦の関東地方において、安房(千葉県南部)の小領主の身ながら大勢力の北条との戦いで互角以上の立ち回りを見せた反骨の闘将。彼の代に里見家は最大の領土を獲得している。

義堯は家督相続から波乱の幕を開ける。1533年、父・実堯が里見本家の当主である従兄の義豊に殺害されてしまう。諸説あるが、父が北条家と組んでクーデターを企んでいたものに機先を制したというのが有力だ。これを受けて義堯は北条家の援助の下、兵を興して義豊を討って里見本家の吸収に成功する。だが、北条との関係は長くは続かなかった。

1537年、同盟を結んでいた真里谷家で家督争いが起きると信応を支援するが、北条家は信隆を推したために対立するようになった。すると義堯は北条と対立していた小弓公方の足利義明と結んで対抗する。将軍家の名声を活かして反北条の連合を組んだ義堯は、義明を盟主に北条へと軍を向ける。これを第一次国府台合戦という。しかし、いざ軍議に入ると義堯は失望を覚える。地の利を生かして岸に陣取り、北条軍の渡河中に攻撃を仕掛けようという義堯らの提案を義明は一蹴する。義明は己の武勇と家柄を過信しており「将軍家の一門である自分に本気で弓を引くわけがない、自分の威光で蹴散らしてくれよう」と上陸した敵を自ら討ち取るといって聞かなかったのだ。これで勝敗は決したようなものであった。無事に河を渡った北条軍と足利軍は国府台において激突。武勇に勝る義明は序盤こそ有利に進めたが、北条は数に勝った。時間を追うと疲れが見え始め、北条が押し返して遂に義明を討ち取った。成り行きを冷ややかに見ていた義堯は義明の死を聞くと、無傷の軍を率いて撤収した。そして、主の居なくなった義明の領土を手中に収めた。

こうして勢力を伸ばした義堯だったが、北条はこのまま引っ込むほど甘くはなかった。1554年に北条・武田・今川の三国同盟が成立。北条が本腰を入れて調略を仕掛けてくるようになり、先の国府台合戦の後に獲得した里見領の大半が北条方になびいてしまった。しかし、義堯も負けてはいない。ならば北条を越える同盟で圧力をかけんと、上杉謙信との同盟を成立。これに反北条の佐竹・宇都宮・太田家を巻き込んで北条に屈しない姿勢を示した。この小領主であることに卑屈にならずに活路を見出す姿勢というのは、今日の教訓としても秀逸なものであるといえよう。北条との小競り合いが続く中、1566年には海戦で北条と激突する。里見家が小領主にもかかわらず北条に対抗できていたのは海軍の存在によるところが大きかった。これがゲリラ的に北条領から略奪し、ある村では里見家に対しても年貢を納めているような有様だった。これに目をつけて北条は殲滅せんとしたのだが、逆に暴風雨により北条の船が打撃を受けてしまい、これに乗じて義堯は船を出して撃退する。ならばとばかりに1560年、今度は義堯の久留里城を攻めてきたが、義堯は籠城し、上杉の援軍を得てからは逆に北条を撃退。この勢いをもって攻勢に転じた義堯は北条に奪われた旧領のほとんどを取り返してしまう。この頃には嫡男の義弘も立派に成長しており、1562年に家督を譲った。この後は次世代の育成をしながら更なる北条との戦いに挑むことになる。


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