裏路地のお爺さん
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妖精―――彼らはその名で呼ばれることを嫌うため、正確にいうのならばあちらさん。或いは、小さき隣人たち。
人とは違い、非常に長命で時には寿命という概念を持たないものすらいるあちらさん達は、しかして決して不老不死の存在ではないのだ。
傷つけられれば怪我をするし、あちらさんによるけれど人間と近い機能……血液を持つ者もいる。
動物や人間の姿をしているあちらさんなどは、そういった傾向が顕著なのだが、それはさておき。
あちらさんは、生物なのだ。次元というか、異相が違うだけできちんと世界に根付き、セカイに生きる生き物なのである。
怪異とは違う。魔物とも、少し違う。
怪異は確かに、あちらさんとその存在というか、在り方は近いものがあるけれど、本質は全くもって別物だ。
形を持ち、命を持ち、生きるという概念を持つのがあちらさんだけれど……怪異とは、呪詛や形となる前の命そのものが片鱗を顕したもの。
新しき龍の持つ先祖返りのように、魔法などの手法を用いて一時的にその怪異の形態をとることのあるあちらさんもいるが、それでもその姿も取れるというだけで、怪異にしかなり得ない怪異そのものとは大きく異なっている。
ようは、怪異とは魔法的な原始生物ととらえていいわけだ。
それ故に、人や時にはあちらさんの感情によって、まるで水のように大きく性質を変動させる。大体の彼らは嫌な感情に強く反応するから、怪異はおおよその場合人間にとって良くない結果を齎すことが多い。
というかいい思いによって変じた存在は怪異として人の前に現れないからね。
―――原始というよりは、元始。生命の始まりの、そのまた起り。
生物とは本質を大きく異とする、混沌の泥。それこそが怪異と呼ばれるものなのだ。ほら、命を持つあちらさんとは大きく違うでしょう?
ああ、そして魔獣は……うん。まあ、あれは千夜の魔女によって作られた生粋の怪物だから、命はある。
あるけれど、この世を喰らい恨み、呪うという千夜の魔女の意思によって災厄を振りまくだけの存在となっていて、さらに生態系……厳密にはあちらさんは生態系とは呼ばないけれど、子を為すあちらさんもいるから便宜的にそう呼ぶけど……というものが存在しないという特徴を持つ。
命の在り方はあちらさんに近いけれど、生きるという行動をとらず自滅覚悟で人を、或いはあちらさんや龍種、古き龍たちにすら牙を剥く彼らは―――生物というにはあまりに悲しく、冷たい。
個体としてあるものの方が多いが、群れを為すモノもいる。……しかし、あれは生物の営みの中での子ではなく、より効率よく世界を喰らうための道具として生み出されたもので、厳密には増殖に近い。
子供は基本的に大事なものである、なんていう原則を持たないから、あれは生物としての活動とは呼べないね。
因みに、魔獣の中でもそうして個であることを破棄し、群体としての形態を獲得したものは、多くの場合魔物と呼ばれるらしい。とはいえ魔獣と一括りにされることも多いので、より詳細に呼ぶならばそっちだよー、程度の物なんだけど。
……千夜の魔女が、正確にはその肉体が滅ぼされてから幾星霜。
魔獣も魔物も長い時をかけて変じたモノもいるだろう。彼らの全てが今もまだ人間と妖精と龍と……この世の全てを呪っているわけではないのかもしれないが、さて。
そればかりはまだ魔物に出会ったことのない俺には分からないな。
でもいつかは彼らと相対することになるのだろうとは思う。俺は俺の身体としっかりと向き合わないといけないから。
即ち、千夜の魔女としての俺と。
……魔物の中でも頂点に位置する、知性ある怪物たち―――例えば魔神ならば、あの絵本に記されていた古の戦いの、本当のことを知っているだろうか。
それも、知らなければならないものなのだろう。
「でも、今はまず舞い込んだ依頼をしっかりと完遂しないとね」
そう。それが本題なのだ。
ついつい頭の中の知識さんによって開示されたそれらの情報について語ってしまったけどね。
そうそう、この知識さんについて俺は最近名前を付けたのだ。いつまでも知識さんなどと呼んでいてはやりにくいし、間抜けだから。
名を付けるということは存在を決定付けるということ。
この知識という宝の山をより正確に、上手く使うのであれば名を付けるのは必須といえるだろう。
俺も地球ではオカルト知識を普通の人よりは知っていた方だが、それもこの知識さんに比べれば微々たるもの。
より善い魔法使いになるためには、知識さんを完璧に使いこなせるようにならなければいけないからね。
……今でも前よりは一体化してきているけれど、ね。
と、そうだった。折角名前を付けたのだからいつまでも知識さん呼びは失礼だね。
―――其の名前は”魔女の知識”。
千の夜を振りまいた魔女の蒐集せし、万魔の図書館だ。
ま、そんなに大層な名前というわけでもないし、意味などに細かい名前があるわけでもないのだけれど。
呼びやすくてわかりやすい、そんなものを第一として考えましたので、そんなものなのです。
また本題がどこかに行ってしまったので、そろそろ現在の状況についてを語ろうと思う。
俺は今、カーヴィラの街を東西南北に走る通路のうち、東の大通りを歩いていた。
それは何故かというと、単純な話。シルラーズさんに直接会いに来てほしいと頼まれたからだ。……手紙などではあまり公に話しにくい、重要な依頼とのこと。
ミーアちゃんからはちらりと聞いているけれど、あちらさんの治癒だもんなあ。
「彼らが傷を負うことは多い。けど、自分で治せないほどの傷を負うことは珍しいからねぇ」
それもまた、人間に助けられるほどの傷を……だ。
あちらさんたちは多くの場合、自力で魔法を扱える。自らによってこのセカイを満たすほどの魔力を生み出しているのだから当然なのだが。
鉄を始めとした金属による傷などは確かに治りが遅くなる傾向こそあるが、それでも彼らが人間に助けを求めるほどではない。
いたずらは好きだけれど、人に助けられることはあまり好まないのがあちらさんという生き物。だから人間に直接助けられる子なんてそうそういないんだけれど……相当、込み入った事情がありそうだ。
などということを考えながら、俺の前の前を飛ぶ半透明の小さな飛龍の後を追う。
街の中心部から離れ、大通りを殆ど抜けかけた端の方で曲がったその飛龍に従い、路地へと入り込むと……。
「煙草の香り?ん。結界か」
煙によって人払いされた空間であることが香りで認識できた。
空間の効果によって、微弱に自身にかけていたヘーゼルの冠の魔法……認識妨害の魔法が解けていくのを自覚する。
まああれは俺の姿を……というか、千夜の魔女に関係のある存在であるということを街中で知られないようにするためのものであり、すでに結界の張られたこの内部であればわざわざかけている必要もないものだ。
結界とは閉じ込めるもの。そして閉じ込めたものは外より認識されないのが常。
結界内部であれば、相当手を込ませて覗きこもうとしない限りは中を見ることは出来ないだろう。
……ま、そもそもとして結界に於いて最も強力なものは、認識されないという結界であって、この結界はその類いのものだ。
結界がそこに張られているということが分からなければ覗きようがない。そも、迷い込む以外の選択肢すらない。分からないものは対処できないのだから。
流石はシルラーズさんだよね、一切の違和感もなしにこのような結界を張って見せるのだから。
感心していると、飛龍が俺を急かすように旋回していた。この子も魔術によって作られた一時的な使い魔だろうに、ここまで生き物臭いというのはやはり腕前がいい証拠なのだろう。
「ごめんごめん、今行くよ」
飛龍の頭を指で撫でて、結界の張られた空間を進む。
中世風の街の裏路地を進み、さらに入り組んだ小さな路地へと。
この辺りはもう、店が構えられていることすらない、家と家の隙間のようなもの。そのため、人とようやくすれ違えるかという程度の道幅でしかない。
「魔術による結界と、物理的な距離による妨害か。……そんなに知られたくないこと、なのかな」
それもこの先の目的地へと辿りつけばおのずとわかることでしょう。
飛龍は翼をはためかせて、裏路地の先に現れた小さな小さなお店の扉の郵便ポストへと止まり、その姿を消す。
なるほど、ここがシルラーズさん指定の場所というわけか。
……人形の家のようだね、これは。
実際にドールハウスというわけではない。ただ、印象としてそのようなものを感じさせる。
カーテンに覆われた出窓には、猫を模した置物や造花が飾られていて、家のレンガの壁を緑のカーテンのように覆っている植物もまた、美しい姿を保っていた。
しかし、それらには誰かが手入れをしたという痕跡がない―――始めから今まで、そうあり続けたかのように。
ここから見える外観の全てがどこか作り物のようなこの家は、果たして何なのか。
―――ま、いっか。
中に入ればわかることだし。考えているよりは足を動かした方がいいからね。
ということで……。
「お邪魔しまーす」
扉を開けると、中は外から見たものほど小さくはなかった。いや、寧ろ広い部類だろう。
俺の住んでいる一軒家と大した差がない程に。
一歩足を踏み入れると、後ろでパタン、という音が響いた。後ろを振り返ってみると、どうやら扉がひとりでに閉まったようだ。うん。まあよくあることですね、はい。
うーん、やはり外見は作り物で、あれはただの入り口でしかなかったってことなんだろうなあ。
つまるところのハリボテ。
見せかけだけの物なのだから、作り物の感じがして当然というわけだ。魔術的な観察眼がなければそんな感覚すら覚えない程にうまく作られていたのは事実なんだけどね?
「シルラーズは奥だ。……さっさといけ」
「うわっ、びっくりした?!」
「……大声を出すな、煩い……」
「ご、ごめんなさい」
低くしゃがれた声が急に背後から聞こえてきたものだから、思わず大きな声を出してしまった……。
乱れた鼓動と呼吸を落ち着かせながら、背後……いや、さっき扉を見るために後ろを振り返っただけだから正確には正面……をみると、そこには痩躯のお爺さんがいらっしゃった。
痩せてはいるけれど、背は年の割には高い。どれくらいかというと、女性になって縮んでいる俺よりはずっと高いところに頭がある。
顔には深い皺が刻まれているけれど、腰は曲がっておらず、健康的とまでは言えないが弱々しさは一切感じられないご老人であった。
「えっと、お爺さんは……?」
「お前に言う必要があるか?」
「ん~、そういわれるとないですね……」
お爺さんから漂ってくる香りはこの家の香りと同じモノ。
ちょっと薬品臭い……病院の匂いにも似たそれを発しているということは、このお爺さんがこの家の主、或いは長く住み込んでいる人と考えていいだろう。
そもそもシルラーズさんは奥にいるって教えてくれているし、少なくとも関係者であるのは事実だろう。
なので、確かにお爺さんが知られたくないと言い切ったのであれば俺にそれ以上詮索する理由も権利もないのだが、
「それでも知りたいです。お爺さん、お名前は何でしょうか?」
「……変わった女だな、貴様は」
「そう、ですか……ねえ?」
「ああ。……フィーグ。この家の主だ」
「フィーグさんですね。―――お邪魔します」
帽子を取ってぺこりと頭を下げ、靴を脱ぐ。
後ろに手を組んだお爺さん……フィーグさんは、背を向けながらも俺を見ると、無言でこの場を立ち去って行ったのであった。
……俺、そんなに変わっているかなあ。
そこまでいろんな人に変わり者だといわれることには少々不満がある。だって、そこまで変な行動していない筈ですし?
ちょっとだけ頬を膨らませつつ、フィーグさんの御屋敷を進んだのだった。