夢の終わり
とうとう足が絡まり、雨に濡れた街の地面に転がる。
周囲の人の目が集まるが、もうそんなものはどうでもよかった。
「誰か教えてよ、この気持ちをどうすればよかったのよ……」
どうしようもないから、最後の手段であった愛の秘薬すら使ってカルアさんの気持ちを引き寄せたのに。
それも駄目だと否定されたなら、私は―――私は、ただ諦めるしかないってことなの……?
ねえ、教えてよ。終わらせ方を、誰か……。
「誰か、教えてよ―――!!!!」
諦めるだけなんて嫌だ、我がままで酷い感情だとしても、この初恋だけは本物だから失いたくない!駄目だったからなんて理由で捨ててしまいたくない!
助けて、苦しいよ……。
ふと、気が付いた。辺りにジャスミンの香りが漂っていることに。
あれ、私の顔を誰かの影が覆っている……?
顔を上げて、倒れた身体も起こしてその影の主を仰ぎ見る。
「まつり、さん……」
そこに佇んでいた、幻想的な程に美しい魔法使いはじっと私の目を見ていた。
翠緑玉のように深く、しかし光を漂わせる……不思議な人為らざるモノの目。
私は今この時、初めてこのマツリという魔法使いに、普通の人間ではないという実感を得た。
美しいだけではない、柔らかなだけでもない。マツリさんが持つ、幻想的な雰囲気はこの人だけのもの―――まるで妖精のように、向こう側にいるような……。
綺麗だ。けれど、とても危うくて……ゾッとするような在り方。
マツリ……茉莉花。ジャスミンという意味を持つ名前。
最初にあった時はその小さな白い花に相応しい人だったのに、今はどちらかといえば毒を持つ、恐ろしい白曼珠沙華を想像させる。
「ねえ、私はどうすればよかったんですか……」
「最初にあの薬を渡したとき、最後の結末は必ず不幸になるって話をしたよね」
「―――はい……」
「強力な愛の秘薬だけれど、所詮は偽物の恋を齎すだけのもの。永遠の愛は誓えないんだ」
諭すように、言い含めるように。
小さな子供に言い聞かせるように、彼女は語る。
強く降る雨の中でも、不思議とその声は耳に届いた。
「……正しく、ここが”夢の終わり”、というやつなんだ。魔法使いにも、この先の結末は変えられない―――いや、変えてはいけない」
この結末までは、この魔法使いでも変えられない……変える気はないと、はっきりと言われてしまった。
マツリさんはやろうと思えばできるんだろうとは思う。
人間ではないこの人なら、きっと永遠の効力を持つ愛の秘薬を作り出すことも可能なのだ。
でもそれは自然ではないからやらない。ああ、そうか。マツリさんはこんなにも人間に近しいのに、人間とは決定的に違う価値観を持っているのか。
そっか、もうここが終わりかあ……。納得なんてできないけどさ、でも……何でもできる魔法使いにそう諭されたら、従わないわけにはいかないかな……。
音もなく、瞳から涙がこぼれる。雨では隠し切れないほど、大量に。
「―――でも」
コツン、と。
魔法使いが手に持った杖を鳴らす。
白く細い指が、私の頬に触れて涙を拭った。
「過去なら、変えられる。未来はこれ以上変わらなくても、過去ならば―――君次第で」
魔法使いが微笑んだ。
少しだけ申し訳なさそうな表情を浮かべて。
雨に濡れ、しっとりとした髪が私の前で揺れて、草木の香りを漂わせる。
「君はどうしたい。言ってごらん」
マツリさんの手は涙を拭った後、今度は私の頬を包み込む。
過去は、変えられる……?昨日に戻るなんて不可能な筈なのに、どうして?
普通は逆だ。過去は変えることは出来ず、しかし未来こそは己の意思で掴み取れると……普通の人ならば、そういうはずなのだ。
なのに娘の魔法使いは真逆のことを言って見せた。
―――でも。もし、その言葉が本当なら?
過去を今からでも変えられるのだとしたら。私はそれを、選択するだろう。
頬を包み手に、私の手を重ねる……。
「うん。……じゃあ、質問だ。君はどこを変えたい。どこに戻りたい。―――戻って、何をしたい?」
「なに、を……」
そんなことは決まっている。
偽りの恋なんて、もういらない。何れ解けて消えてしまう、泡沫のような……綺麗なだけの夢なんて、私には不要のものだ。
欲しいのは、本当のカルアさんの愛。
それを掴むためなら、どんなに泥臭くて綺麗じゃない私でもいくらでも努力をしよう。
例え、その結末がこの未来と同じものになろうとも、私自身が足掻いたという足跡は確かに残る―――何も残らず、罪悪感だけを積み重ねたこの夢の終わりよりはずっと、ずっと。
ずっと―――私が生きた道の証明になるはずだから!!
「私は、あの愛の秘薬を選ばない……私自身の力で、結末を選び取りたいです……!!」
「……よく、気が付いたね。いい子だ。じゃあそのまま強く手を握って?準備はいいね」
手を引かれ、立ち上がる。
そしてマツリさんは、手の届かない月華の如く美しく微笑むと、こう言った。
「さあ、浮き上がるよ?ここに夢は閉じた、次に為すのはただ一つだけ。そうだ……目を、覚ます。それだけさ」
ふわり―――杖を再び地面にあてると、なんと……なんとなんと、私たちの身体が浮き上がった!?
「ふふ。世界を見てみて?君が歩んだこの未来を」
握った手に力を入れてマツリさんからなんとしてでも離れないようにと努力していると、ともに宙に浮いた状態のマツリさんがそのように耳打ちした。
私が歩んだ未来って、なんだろう?
いやそもそも、もう何十メートル浮いたか分からないのに、下なんて見れるわけないでしょうがああああ!!!
「勇気を出して。大丈夫だよ、俺がしっかりと手を握っているから」
「う、うう……はい」
高度はさらに上がっていく。そこまでひどい高所恐怖症ではないけれど、人間の摂理として高いところは怖いのだ。
けれど、きっとマツリさんが言うならば必要なことの筈だから、言われた通りなけなしの勇気を振り絞って、マツリさんの顔から眼を逸らす。
「―――ぁ」
……眼前に広がっているのは、想像していたような広い世界の風景ではなくて。
私の暮らしていた街だけがそこに存在している、模型のような世界だった。
街の外縁、私が普段あまり意識しないような箇所は煙霧に解けて、何となく存在しているだけのものになっている。
そっか。この街は、私の意識が作り出したもの。
―――ここは、夢の世界なんだ。
「予知夢って言葉、聞いたことがあるよね」
核である私が世界を離れたことでゆっくりと消えていく小さな世界を尻目に、マツリさんが言葉を紡ぐ。
「これは、その一種だ。ただ一つ変わっている箇所は、これから起こる未来を実体験できる、ということ」
「実体験ですか……?じゃあ、私がこのセカイで経験したあれらは」
「うん。あのまま愛の秘薬を使った結果の未来。まあもちろん、未来を知ったという時点で全く同じ未来は訪れないけれど、可能性には集束性があるからね。どうあがいても、起点となる要因を変えない限りは同じような結果になる」
「その起点っていうのが、もしかして……」
「愛の秘薬だよ。未来を見せるのは俺のルールには反しているんだけれど、流石に不幸になると知っていてそれでも送り出すのは人としてどうかと思ってね」
たははーっと苦笑するマツリさん。
普通、魔法使いでも未来を見せるのはとても難しい筈なのだがそれを当たり前にやるって……ちょっとこの魔法使い人間離れしすぎている気がするんですよね……。
しかも、水晶玉でただ見せるだけではない。実体験をさせる予知夢なんてもの、もはや言い伝えに聞く妖精の秘儀の一種なんじゃないかなあ。
「茉莉花の煙霧には、安眠効果と予知夢を見せる効果がある。俺の本職は薬草魔法だから。こういうのは得意ではあるんだ」
「得意だからって予知夢……しかも限りなく正しい未来を見せるっていうのは凄すぎませんか……?」
「そうなの?」
「た、たぶん?」
私は魔法使いどころか魔術師でもないし、妖精を見たこともないので実際は分からないけれど、そんなことを当たり前にやって見せる魔法使いの話はそうは聞かない。
というか、逆に首を傾げられてもこっちが困る。ああ、この人……天然だなぁ……。
しみじみと思っていると、視界が少しづつ白く染まっていくのが分かった。
段々と瞼も落ちてきた……あれ、おかしいな……。
「大丈夫。目覚めるだけだよ」
そっか、この感覚が夢が終わって、眼が覚めるときに感じるもの。
現実へと引き戻されるあの感覚なんだ。
それはいい。元のセカイへと戻るだけだから。でも、一つだけ気がかりなことがあった。
「ここでのこと、覚えて……いられるんでしょうか……」
「―――うん。きっと」
もうすでに浮かぶ感覚もなく。
夢の中で眠くなるという、奇妙な状態へと移り変わっていった。
現実の眠気に夢の中の私も影響を受けているのだろう。体の感覚も少しづつだけど戻ってきた。
……覚えて、いられるのか。そっか、それはよかったなあ。
この痛み、この記憶。次に進むために大事にしたいから。
忘れてはいけないものだから―――。
「普通、夢は夢で終わるもの。覚えていてはいけないんだけどね―――でも、うん。その覚悟は尊いものだ。もう一つだけ、自然のルールを破ってしまおう」
母のように私の頭をなでる感触と、もはや意味を理解できなかった言葉が聞こえてきて。
私の意識は、そこでふつりと落ちてしまったのだった。