残夏の惚気話
「それで、やっぱりこれだけのことをして貰って報酬が本一冊っていうのも悪いですし、追加で……何かできることがあれば手伝います!」
「大丈夫だよ。俺にはあの本こそがとても貴重で大事なものなんだ。フィリちゃんは、気にしないでカルアさんと過ごしてくれればいいの」
「……あの本って、そんなに貴重なんですか?噂に聞く魔導書みたいな?」
「いや、魔導書とは違うよ。あれはかなり厄介なものばかりだから……どちらかというと稀覯本の類かな。知識書っていった方が正しいね」
「ほほお、流石路地裏の古本屋、変わったものが売れ残っていたんですね……いや一番の問題はその価値を知らずに適当に持ち帰っていいよ、なんていったカルアさんの見識不足……?」
「いや、うん。うん……そこはまあ、否定できないかもしれない」
苦笑が混じったマツリさん―――あれ?
そこで少しだけ、違和感を感じた。
マツリさん、今……初めて笑った?
気のせいかな。伏せ気味の瞳の長いまつ毛に注目してみる。
「……ん?」
「あ、いえ。あ、あの~そう、とても綺麗な瞳してますよね、マツリさんって!」
「そうかな。あんまり気にしたことないかも。鏡そんなに見ないし、自分の見た目って実際のところそんなに考えたことがないんだよね」
う、羨ましい……!私なんていつも鏡とにらめっこしているのに!
やっぱり本物の美人さんって自分の見た目には無頓着なのかなぁ。いや、多分マツリさんが特に気にしてないだけだよね、うん。
それでこれだけ綺麗ってやっぱりずるいなあ、うう。
―――あれ?何を考えていたんだっけ。
「さてと、じゃあ……もう遅いし送るよ」
「え、もうそんな時間ですか!?」
「うん?もう夕方だよ」
窓を見ると確かに日が沈んで、夕焼け空が覗いていた。
そんなに長い時間過ごしていたんだ……なんというか、居心地がいいこの家は、時間の進みが早い気がする。
自分の家でも、自分の家のように慣れ親しんだ古本屋でもないというのに不思議な話だ。
ここに満ちている空気が、そしてまるでこのセカイの住人ではないような、まさに妖精のようなマツリさんがいるからこそなのかな。
「よいしょっと。じゃあ行こう」
「あ、いえいえ一人で帰れます!まだ太陽、出てますし!」
気が付けば既にマツリさんは帽子をかぶり、出かける支度を始めていた。
お世話になり続けている人に、送ってもらうなんて流石に気が引ける。マツリさんとは四月、春の時期に出会ったが、早いもので今では夏。正確には残暑に近いわけだがそれでも日は長いのである。
恐らく太陽の傾き方的にあと一時間程度は茜色の空のままだろう。
夏を終えて日が短くなりつつある時期なのは事実だが、まだまだ秋や冬、春の入りたて程ではない。走れば街まで余裕で到着できる。
マツリさんの家までは一時間くらいだから……大体その半分くらいの時間で帰れるはずだ。うん、なら大丈夫。
「でも大丈夫?」
「はい!」
「そっかー。空飛んで行こうかと思ったんだけどね」
「……えっ」
ぽやーんと口に出された言葉に驚愕した。
え、空ですか。飛べるんですか。流石魔法使い……それはとても気になったけれど、もう断ってしまった後だ。
今更やっぱりお願いしますとは言えない。
ちょっとだけ落胆をしながら、それを悟られないように玄関で靴を履いた。
特徴的な茉莉花の香りが漂うマツリさんの家。玄関からまっすぐ見える廊下の奥の方はカーテンの仕切りがあってよく見えないのだけれど、うっすらと隙間からもう一つ玄関が見えるような気がするんだよね。
……あれって何に使うんだろうか。
裏口にしては立派に見えるし。今度聞いてみようかな。
「それじゃあね、フィリちゃん」
「いえ、ハーブティご馳走様でした」
「お粗末様でした。……気を付けてね」
「はい!」
大きな帽子の魔法使いさんに笑いかけると、私はそのまま玄関を飛び出して街まで走った。
―――後ろで少しだけ、申し訳なさそうにしているマツリに気が付くことはなく。
「そろそろ、かあ。やっぱりその結末に至るよね。当然ではあるんだけど」
眼を閉じた白髪の魔法使いを、否。
魔法使い自身やその家、そして妖精の森に至るまで……フィリから遠ざかった箇所が白い靄へと包まれていく。
溶けるように、染みこむ様に―――或いは、それは視界の端の方へ押しやられる感覚に近いのかもしれない。
いつの間にか。
マツリの手には白いジャスミンの花が握られていた。
それを空へと放り投げると、煙霧へと変容し、そして。
マツリの身体もまた、煙霧となって融けてしまったのだった。
***
マツリさんに惚気話を聞かせてからさらに二週間が経過した。
段々と風が冷たくなってきているのを実感しているが―――今はそんな冷たさなんて、全く感じないほどの身体があったかかった。
……特に手はあったかい。なぜかって、そりゃあ……手を繋いでいるからですよ、はい。
そう、今日はカルアさんとのデートの日なのだ。いや、すでにデートは何回もしているんだけどね。何回やってもいいものです……。
「やっぱりカルアさんはしっかりと決めるとかっこいいですね」
「そうかねぇ……おじさんにはこんな服、似合わないと思うんだが」
「もう、私の見立てを否定するんですか?」
「あ、ごめん。そういうわけじゃないよ」
軽く冗談を言って困らせてみる。こういうやり取りは昔からだけれど、今は恋人としてだ。
感慨深いなぁ。
甘い恋人としての、言葉の中にそっと別の思いを込めた冗談だ。
今までのものとは意味合いが違うし、重さも違う。
さあ、今日はいろんな場所を二人巡るのだ。まずはそうだなあ―――うん、朝ご飯からにしよう!
お腹が空いていては満足なデートなどできないのです、はい!
「あのお店いい感じじゃないですか?」
「カフェか。朝食にはいい感じの軽さだね。でも大丈夫?フィリちゃんには物足りなくな……おふっ?!」
「カルアさーん?私は女の子ですよ?全然物足りるに決まっているじゃないですかあ?」
「ごめん、いやほんとごめんって」
私のことをなんだと思っているのか。そんなに大食らいではないのだ。
そりゃあ成長期だし、好物はついたくさん食べてしまうけれど、最近はそういうところにも注意していたというのに。
あ、最近といっても恋人になるずっと以前からだから、年単位か。全然昔からだった。
……なのに気が付いていないって、本当にこの人は鈍感なんだから。
「さあ、行きますよカルアさん!」
「分かったよ、ああこらこら急ぐと危ないよ?」
「大丈夫です、カルアさんと一緒にしないでくださ―――っあう?!」
「おっと」
しまった、人とぶつかってしまった……。
危うく倒れかけた私を、カルアさんが力強く抱き留めてくれた。
意外と逞しい胸板に顔が押し付けられて、あれ。これかなり役得じゃない?などとつい思ってしまった。
わざとぶつかったわけじゃないけれど、これはこれで。
「いや、すいません」
「こちらこそ申し訳ありませんでした。えっと、娘さんかしら?」
「いえ、この娘は……」
そこでカルアさんが一瞬、言い澱んだ。それは私くらいしか気が付かないほどに短い時間であったけれど、私のことをどう説明しようか迷ったのだ。
恋人って、即答してくれたらいいのになあ。
無理だってわかってはいるけれど、そう願ってしまう。
カルアさんと私じゃあまりに年が離れているから、普通に恋人だと言ってしまうとカルアさん自身も変に見られる。
まあこの人の場合、それよりも私が変な目で見られるのを嫌うから言わないんだけれど、それでも少しだけもやもやした感覚が残った。
「―――ふふ。そういうこと。……お嬢さん、ぶつかってしまってご免なさいね?折角の服も乱れてしまったでしょう?」
「い、いえいえ大丈夫です!というか私こそよそ見してて、ごめんなさい!」
そっと胸板から顔を外して、私がぶつかってしまった女の人に視線を向けた。
そして思わず、息をのんだ。
―――美人だ。マツリさんほどじゃないけれど、浮世離れした幻想的な……比べるのも馬鹿らしくなるようなあの人とは違って、まだ高嶺の花と呼べるような人。
いっそ触れることすらできないマツリさんとは違って、その美しさに私自身がコンプレックスを抱いてしまうような、現実的な美しさを持つ女性だった。
当然高嶺の花にも簡単には手が届かないのも事実だけれど、それでもその花は見えるところにあるからこそ、どうしても目を向けてしまうのだ。
都会の人なのだろうか、トーク帽にゆったりとしたフレアスカート、そしてそのスリットから少しだけ見える美しい生足。
どれもこれも、私にはないものばかり。
綺麗という言葉を様々に装飾してできたような女性だと、そう思った。