影の中に潜んでいたのは
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「さて……」
杖に跨ってさっさと家に帰ってようやく一息。
ため息もついでに吐くと、そのまま鍵を開け……ることはなく、家の裏に回ってローブの内側に手を入れた。
目を少しだけ細めて杖を立てかける。すると目の前の妖精の森がざわざわと葉を鳴らして呻いた。
息を吸いこんで、手に力を入れた。
「―――何か言う事はある、ケットシ―?」
ぱしりとつかみ、ローブから取り出されたのは、二股のしっぽを持つ黒猫だった。
光を吸い込むようなしっとりした体毛から覗く、まん丸の蒼い瞳が申し訳なさそうに俺を見ていた。
……まったく、そう思うならやらなければ……いや、ちょっと考えてからやればいいのに。
「あの時影を祓ってそして―――影は二つに分裂した。一つはアリエッタさんの影で、もう一つは君だ。なんでまた、人の影と同化するなんてしたの、もう」
「うにゃ……」
ケットシ―が小さく返事をした。
……ケットシー。一般に化け猫と称される彼ら。
彼らもまた、あちらさんの一種なのである。日本や中国にも猫又やそれに類する伝承はあるけれど、そちらもまたこの子と大本を同じとする存在である。
英国では、猫に九生ありとまで言われ、とても長生きをする変わった動物として知られている猫だけれど、猫は長く生きると魔力を持ち、あちらさんとして生まれ変わることがあるのだ。
それがケットシ―。あちらさんだけれど、物理的な肉体も持つことができる、人間と近くにいるあちらさんだね。
見分ける方法は、彼らか隠す気がなければ尻尾が二つある猫をそうと判断していい。警戒心が薄いと結構人語で話していたりするので、それでも分かってしまえる。
さて、そんな彼らだけれど―――困ったことに普通のあちらさんよりもさらに気まぐれでいい加減なところがあるのだ。
「だってだにゃ……じれったいんだにゃ!好きなら好きというにゃ!!」
「いやいやそれは難しいよ……」
「僕らなら好きになったならすぐに行動するにゃ!自分で自分の気持ちに蓋をするなんてありえないにゃああ!!」
「あーはいはい分かった、わかったから顔ひっかくのはやめて?」
地味に腫れてる頬が痛いから。
なるほどねぇ、そういうことか。
アリエッタさんは普通の人だ。魔女の血やあちらさんの血が混じっているというわけではなく、正真正銘の人間である。
このセカイでは不可思議なことも起こりやすいとはいえ、魔法的な薬品でも使っていないのに思いだけで影が……自らの分身が無意識に動き出すなんてことは、そうはない。
ありえないわけじゃないけれど、アリエッタさんは自制心とかきちんと持っている常識的な人だったから、確率は低いだろう。
それがなぜ、今回動き出してしまったかというと……このケットシーが影の中に入っていたから、というわけだ。
そしてその理由はなんと―――人の恋があまりにもじれったかったから、というね……いやはや、何ともあちらさんらしい理由である。
あちらさんの中でも恋愛観は人それぞれだ。
シェーンは人間らしい感性だったけれど……ケットシーとかは特に動物的な恋愛観を持っている。
この子にしてみれば、アリエッタさんの恋愛感情というものはあまりにもゆっくり過ぎたのだろう。
それも普通に考えればしょうがないのだけれどね……なにせ。
姉妹のような関係だからこそ育まれた感情であり―――姉妹のような関係だからこそ、表層化できなかった恋なんだから。
「でもね、ケットシー。俺がたまたま君を解き放ったからよかったけど、俺以外の魔術師とか魔法使いなら、影ごと一緒に消されてたかもしれないんだよ?」
「………う、うにゃあ」
肉球をふにふにしながら、今回ケットシーがしたことの危険性を説く。
そう。あちらさんとはいえ人の影に溶け込むという事は、自身の自我をすらなくしてしまうという事なのだ。
アリエッタさんの影の中に潜んでいたケットシーは、事実ただの色のない魔力そのものとして存在しており―――だからこそ、そのまま無理矢理に影をアリエッタさんの元へと還してしまえば、その際にケットシーに戻ることができず世界に無色の魔力として溶けてしまうことも考えられたのだ。
まったく。とても危ないことなんだよ、君のそれは。
特にケットシーは、何かに化けることは得意だけれど、魔法そのものを上手としているわけではないのだから。
「人の恋路に無暗に首を突っ込んじゃいけません……いやまあ、気持ちも分かるけどさ」
「にゃあ……」
「でも自分を危険に晒しちゃだめだよ?」
……あれ、かなりブーメランな気が。
きっと気のせいだよね、うん。大丈夫、大丈夫。
ま、悪気というか悪意は無かったのだからお説教はこのあたりにしておくとしますか。
掴んでいた手を放して、ケットシーを地面へと降ろす。
鍵を手にして、裏口を―――あちらさん専用の扉を開けた。
「じゃ、話も済んだ所でっと。お茶でもしていく?」
「にゃ~!」
「ん。じゃあそーしよっか」
二股尻尾の黒猫を連れて、家へと入る。
そして馳せる思いは、不慣れで真新しい恋を始めたあの二人へと。
きっと困難な恋なのだろう。とても突き通すには難しい恋なのだろう。
けれどどうか、君たちに祝福を。誰に、なにに、そしてそれがどんなものだろうと―――恋をするという感情はとても尊いものなのだから。
故に。抱いたならば、突き通すべきだ。
そしてそのために、俺もまた力を貸そう。
だって、さ……。
「俺は魔法使いで、そしてあなたは―――初めてのお客さんなんだから」