影を祓って
***
「騒がなくていいよ、俺は逃げないから」
街の路地、その中でも人の無意識などが作用し、立ち入ることを本能的に拒否する場所……意識の埒外などと呼称できる特殊な場所へと入りこんだ俺は、そう呟いた。
あの時、店の前でアリエッタさんに姿を故意的に見せてから、この場所に来るまでおおよそ十分程度といったところか。
かけた魔法はきちんと作用している様だった。うんうん、文句なしの出来栄え。
「ここまでは想定内だけど……さてさて」
杖を地面にコツンとあてる。
その杖の先には煙によって形を作られたタイムの枝が這うようにして円を作っていた。
簡易的な結界だ。
円とは、それ自体に閉じ込める、或いは立ち入りを禁じるという意味があるが、それを魔法的な効果を持つタイムの枝で行うことでその効果を飛躍的に高めることができるのである。
けれど、これはあくまでも人の……正確には街のどこかにいるであろう他の魔術師達や魔法使いに感じ取られないようにするためのもので、これによって身を守っていれば現状がどうにかなるわけでもないのだ。
寧ろ現状打破のためにはこの円の外へと出なければいけない。
まあ、そんなに迷うことでも戸惑うことでもないのだけれど。なにせ俺は魔法使いですから。
軽やかに俺の足は、自身によって展開されたタイムの円を抜ける。
煙によってあまれたそれはふわりと空気に溶けて、その直後。
「――――むご、ぉ……はぁ、んっ!?」
周囲に潜んでいた影が一斉に俺へと襲い掛かった。
身体に巻きつき、首を絞め、口の中へと侵入する影たち。
胸が締め付けられて尚且つ息を圧迫されたために若干色っぽい声が出てしまったことはとても恥ずかしいが、まあ仕方ない。
……この身体は本当に、そういうものには好かれやすいのだ。
千夜の魔女の性というべきか、な。
とはいえいつまでも振り回されているわけにはいかない。
彼女の気持ちを少し利用したせいでもあるのだし、自業自得なんだけれど―――望む結果を引き寄せるためには少し本気を出さないとね!
「『煙りくゆるタイムの小枝、霧に交わるセージの葉香』」
自身を顕すスペルを唱える。
言葉を一つ重ねる度に、身体に魔力が満ちていく。
俺の身体を覆う影が身じろぎをした。
「さあ……有るべきモノを、在るべき場所へ!」
身体を走る三脚巴の紋様が少しだけ、熱を帯びる。
シェーンを送った時ほどに強力な魔法を行使する気はない。というか、俺の目的は影を滅することなのではないのだから、そのレベルの魔法を使ってはオーバーキルですし。
再び杖で地面を叩く。今度は先ほどよりも少しだけ強く。
―――周囲に、タイムとセージの特徴的な香りが満ちる。
魔法的にも実質効能としても強力な力を持つ二種類の大いなるハーブ。
煙霧によってつくられたそれに触れた瞬間、影がのたうち回った。
「痛いよね。でも少しだけ……ごめん、我慢してて」
「―――――ッッッ!!!」
声にならない声というものはこういうことなのだろうか。
俺の身体から俊敏に離れた影たちはぶわっと広がり、二つに分かれてこの路地裏から逃げ出そうとする。
その前に手を伸ばして……ああ、だめか。
「まー、あれはつかめるとは思っていなかったけどさ」
まあいいか。目的は達したのだし。
……さあて、ではでは。クーシュ・ド・ソレイユへと再び向かうとしますか。
向こうも向こうで、俺の魔法のせいでちょっとばかり大変なことになっているかもしれないし。
いや、アリエッタさんの中の自制心が欲望に負けていなければそんなことにはならないのですよ?まあ、勝っていたら逆にエリーナさんの付近に影が現れることもなかったんですけど。
ま、確信犯だという自覚はあるのだ。でもこれが最善もでもあった。
「最善、じゃなくて最高の結果を出せるようにしたいところだけど……」
そのためには何分、実力も経験も足りていないのだ―――。
***
「……えっと、アリエッタ?」
「エリーナ、お姉ちゃん……」
ええっと、私は何故こんな状況になっているのかしら?
直前までの状況を思い出しつつ、それでも理由が分からなくて疑問を深める。
つい先程まで、アリエッタにいつも通りお茶を振る舞って。その(私にとっての)至福のひと時も終わったから、開店準備に入ろうとカウンターを潜ったところで……。
「お姉ちゃん……」
「あ、はぁい?」
こうして押し倒された、というわけだ。
紅茶とかに変なものが入っていたのかしら。でもカビとか埃とかには人一倍気を使っているし、いれる前にもそんなものは見当たらなかった。
そもそも、身体に不調を起こすならばわかるけれど、こうやって押し倒される状況に繋がるとも思えないし、ねぇ?
「好き、すき。……すき」
「あ、ありがとう?―――ふふ、私も好きよ、アリエッタの事」
いつも私の後ろを付いて回っていた、幼い子供。
今では成長して、前を行くこともあるし、子ども扱いすると怒るからあんまり口には出さないけれど。
血こそ繋がっていないが、妹のようなこの娘の事は、私ももちろん大好きに決まっている。
なんだ、そんな当たり前のことが言いたいだけだったのね。
当たり前だけど、言葉にするのは大切なこと。そして、行動として起こすのはもっと大切なこと。
だから、アリエッタの頭に両腕を伸ばして、ふわりと胸元に抱き寄せた。
「ありがとう。好きって言ってもらえてうれしいわ」
「そうじゃないの。その好きじゃないの。お姉ちゃん、お姉ちゃん……!」
「……?」
胸元に暖かい感触があった。
それはアリエッタの息遣いでも、体温でもないしっとりとした感覚。
涙、かしら。
ええと、私……なにかこの娘を悲しませるようなこと言ってしまったのかしら?
「アリエッタ……ええと、どうしたの?私何かしたかしら……」
「…………て」
「え?」
「私だけを、見て……見て欲しい、の。大好き、お姉ちゃん。私は、エリーナお姉ちゃんのことが―――一人の女性として大好きなのっ」
「えっ、えぇ?」
アリエッタが叫ぶ。
言葉を意味を理解して、思わず顔が赤くなった。
えっと、それってつまり―――。
思考と身体が硬直し、頭の中が真っ白になった後に徐々に冷静さを取り戻していく。
言葉をもう一度しっかりと噛みしめて、アリエッタの顔をしっかりと見据えて……そこでどこか違和感を覚えた。
窓から差し込む光。開店前であるために点けていない灯の代わりに部屋の中を照らすそれ。
カウンターや机を照らし、結果として暗闇を作り出す。
―――窓は、私たちの後ろに。アリエッタの後ろにあった。
感じた違和感の正体。それに気が付こうとしたその瞬間………何を考えていたのかを掻き消すようにして、周囲にバジルの香りが満ちた。
店の扉が静かに開く音がした。そして、小さな足音も。
「ようやく口に出したみたいだね。……初めまして、アリエッタさん。俺はマツリといいます」
大きな帽子をふわふわ揺らす、美しい少女の姿をした魔法使いがそこにいた。