クーシェ・ドゥ・ソレイユ
「マツリちゃんって何歳なのかしら?」
「十七歳です。……まあ、見た目よりは歳とっている自覚はありますよ?」
「ええ~若くていいじゃない。私なんてもう二十七歳よ?」
「いやエリーナさんも十分若いと思います……」
というか一回りも離れていたのか。
……十年で、俺はここまで成長できるかなぁ。無理だろうなぁ……。
いや違う、そうじゃない。なぜ成熟した女性の身体になるかどうかの心配をしているんだ!
「どうしたの?変わった顔しているけれど」
「な、なんでもないです」
ちょっと自分の自己同一性に迫る危機を感じていただけで。
帽子の両端を掴み、少し深めに被る。沈まれ邪念、落ち着き給え。
そんなやり取りをしながら、気が付けば簡易城壁を超えて街の近くへと歩いてきていた。
それとともに鼻を突くのは、ゴムが焼けたような異臭……。
「やっぱり送ってきて正解だったかな」
小声で呟き、周囲をそれとなく見渡す。
この匂いは人間っていう感じではないけれど、しかしあちらさんでもなさそうだ。
と、なると候補は限られるというもの。けれど、正体を看破するよりも先に、エリーナさんの身の安全を確保することの方が大切だ。
呪文を発し、息を吸いこむ。
「―――ふぅ……」
俺の口から吐き出されたのは、資格あるものにしか見ることのできない霧煙。
杖から出す物と本質は同じだけれど、効力はかなり弱めてある。
あんまり目立ちたくないしね。どうやら俺の身体は千夜の魔女さんと同じものということで、他の魔法使いや魔術師からは狙われる可能性もあるらしいのだ。
別に狙われても俺自身は困らないのだけれど、それによってシルラーズさんや双子、そして今の依頼主であるエリーナさんに迷惑が掛かっては申し訳ないから、このようにかなり制約を強めて魔法を使っているというわけなのだ。
今は同時に、シルラーズさんの御屋敷を掃除しに行った時にも使った気配を隠す魔法も併用しているからね、それを剥がさない程度の効能だ。
……それでも、仮にエリーナさんに危害が及びそうになったのならば。俺はきっと迷うことなく全力の魔法を使うのだろうけれど―――どうにかそうなってほしくはない物だ。
さてさて、それはともかくとして香りの中身はヤロウのものだ。
―――美の化身たるハーブ。汝の名はヤロウ。
我が真の友は誰か、お前が明日告げるのをひたと待つ。
このハーブについて語った、とある古い詩だ。
このハーブのローマ名はアキレア。叙事詩イリアスに登場するギリシア神話最大の英雄の一人、アキレウスにちなんでつけられた。
うん、あの人の持っている槍っていうのは、殺す力と傷を治す力両方を持っていたというのですから驚きだよね。
ヤロウはそんな彼が捨てた槍の山の中から育ったと言われている。アングロサクソンの言葉では”身体を治すもの”という意味合いを持ち、強い癒しの作用があることを表わしているのである。
それだけ見るとこれは傷を癒す力のあるハーブだと思うだろうが、それ以外にも効能はあるのだ。
ヤロウは洗礼者ヨハネと縁深いハーブだ。キリスト教世界では、このハーブを吊り下げたり、焚火にくべたりすることで魔を祓っていたのである。
「悪臭は弱まったかな」
効力が弱いとはいえ、力ある薬草の魔法。なんとか効いたようだ
けれど、長いことは持たないだろう。一日もすればまたエリーナさんが気配を感じる程の力を取り戻す。
根本的解決をしないとだめだよねぇ、これ。
家まで送ったら少し周辺を調べてみよう。なるべく時間がかからないようにしないと、下手をすれば命に危害が及ぶ可能性すらある。
……原始的な感情こそ、強く働くものは無いのだ。それが純なるものであれば尚更に、ね?
「あ、着いたわ。ここが私の家……というかお店ね」
「―――クーシェ・ドゥ・ソレイユ?」
「ええ。異国の言葉で”夕焼け”よ」
……フランス語?
うん、当然だけれどこのセカイにはフランスなんて国は無い。
ミーアちゃんもメメント・モリという言葉を知っていたけれど、あの言葉の元となった国はやはり存在していない。
ない筈の国の言語や文化、知識が存在しているのは本当に不思議だ。
似たような文化が発生して、同じような言語が発生したという事だろうか。ううむ、謎は尽きないけれど―――それはまた今度調べましょう。
どんどん後回しになっているけれど、今はこのセカイに馴染むことが……世界の中に融けて、生きていくことがとても楽しいから。
だからまずは、依頼をこなすのだ。
「そうだ!よかったらお茶でもしていかない?ご馳走するわよ~」
「え、いやでも、もう既にケーキ貰っていますし」
「嫌かしら……折角年下の可愛い女の子とお茶する機会なの、どうしても……ダメ?」
「うぅっ」
前かがみになってからの上目遣いは卑怯じゃないでしょうかっ?!
そんな風に頼まれてしまっては断れるわけがない。
「ではお言葉にあまえて……」
「やったわっ」
無邪気に喜ぶなぁ、エリーナさん。
ま、俺なんかと一緒にお茶して喜んでくれるというのなら、それは魔法使いの行動として間違いでもないでしょう、うん。
誰かを喜ばせるのもまた、お仕事ですから。
ああうん、実際は仕事というか趣味だけれど、まあいいか。
後ろ姿からでも笑っているのが分かる、年上なのに可愛らしいエリーナさんについていく。
扉にかかっている”close”の札をそのままに、鍵を開けてお店の中へと。
お店のガラスの前に在る小さな黒板に目を落とすと定休日の文字が。
なるほど、だから札を裏返さなかったのか。
「フィナンシェとかパウンドケーキとか、日持ちするものしか今は無いんだけどね。でも味はいいと思うわ、きっと!」
「はい……とてもいい香りがします。おいしそうな、良い匂いが」
ケーキの中でも生クリームなどを使うものなどは、一日置いたりしてしまうとクリームがパサついたりしておいしさが損なわれる。
定休日である今日に作り置きしていないのは当然と言えるだろう。
それに対して、フィナンシェなどは置いてもおいしいし、焼き立てを食べてもおいしい。パウンドケーキなんかはリキュールを馴染ませるためにあえて一日置いたりするし。
「紅茶でいいかしら?」
「ありがとうございます」
テーブルに案内されると、てきぱきと用意を始めるエリーナさん。
カットしたケーキやお菓子をお皿に並べると、すぐにお湯を沸かし、それと同時にポットとカップを温める。
お湯が沸いたと同時にポッドに茶葉を投入、そしてお湯を注ぐと砂時計を反対にして時間を測り始めた。
「手際いいですね。とても慣れている感じですけど、いつもやってるんですか?」
「んー、そうねぇ。私の店、一人お手伝いさんがいてね。その娘ともよくお茶会をしているから」
「エリーナさんが準備を?」
「もちろん。誘っているのは私だし、なによりもてなすのが好きなのよ……はい、どうぞ」
「どもです」
トレーから目の前に置かれた、薄い紅色の液体。香りは紅茶の中のワインとまで言われるダージリンだけれど、少し他の種類の茶葉やハーブや混ざっているらしい。
オリジナルブレンドというやつだ。
適当にやっては味を損ねるのが常だけれど、香りをここまで引き立たせるのは熟達した証拠だろう。
「ミルクと砂糖はいるかしら?」
「いえ、大丈夫です」
口の広い白色のカップを手に取り、まず一口。
渋みとハーブによる爽快感……うん、おいしい!
最近はハーブティーで、男だった頃は珈琲で……とあんまり紅茶とは縁がなかったけれど、偶に飲むととても美味しい。
何よりも誰かに淹れてもらうっていうのがいいよね。