地下の石室
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「ふう……何とか二階も終わった……」
二階はベッドが置いてある部屋も少なかったので、ほとんどが掃除するだけでよかったのは幸いだったのだが。
何にせよ量が多いのは事実である。流石豪邸、団体客が泊まっていっても一切窮屈感はなさそう。
ふと自分の服を見下ろしてみると、確かにエプロン部分や裾が黒ずんでいた。これだけ広いところを掃除すればまあこうなるか。
「おや、もう二階まで終わったのか。手際がいいな」
身体のあちこちを伸ばしていると、本を置いたシルラーズさんがゆっくりと歩いてきた。
「あはは、広いところの掃除はなんだかんだやったことがありますから……」
「それは頼もしい。あとは一階だが……手伝った方がいいかな?」
「いえいえ、お金貰っているんですからきっちりやりますよ。シルラーズさんは座っていてください」
「……そうか?まあマツリ君が言うならそれでいいが」
何度も言うが、掃除だけで金貨を貰っているのだから寧ろ頂き過ぎなのである。
きっとこれほどまでに恵まれた家政婦もそうはいないだろう。いや、家政婦ではないですけれどね?
「じゃあ、掃除開始しますね。何か棄てない方がいい物とかはあります?」
「いや、危険物などはすべて別の場所にある。本は本棚があるからね、そこに戻してくれるだけで片付くと思うよ」
………あの、それって普段から読んだ本をもとに戻せばいいだけなのでは?
とも思ったが、まあ元に戻す戻さないっていうのは人の感じ方次第だったりもするし。
なによりも戻し忘れてしまった本が一旦溜まってしまうと、どうも戻すのがめんどくさいんですよね。ちょっとわかる。
なので、しっかりと戻すこととしましょう。そもそもそういう仕事だしね。
不満言っている暇があるのなら、手を動かさないと。不相応な程の大金頂いているのですから。
ということで、再び珈琲を飲み始めたシルラーズさんに手を振り、屋敷の中へと戻ったのだった。
あ、そうだ。一回の掃除終わったら、干してあるシーツ仕舞わないと。
***
「一階は……機能性もありつつ、でも屋敷の複雑さは残しつつって感じなんだね」
部屋の内装についての話である。
少なくとも一階には誰か、何かを泊めるという考えはなさそうである。
最初に入った衣裳部屋や掃除用具置き場を筆頭として、多くは様々なものが置かれていたり、何に使うかよく分からない奇妙な形をした道具が置かれていたリと、そんな感じだ。
危険物ではなさそうなのがちょっと安心。
この身体は、千夜さんの身体という事でそう簡単に死にはしないのだが、痛いものは痛いのである。
なるべく痛い思いをしたくないというのは、普通の人間なら当たり前に思うこと。そこはもちろん俺も例に漏れずという事で。
まあ、必要な痛みなら負うというのも人間の性なんだろうけどね。
「ふう……」
とはいえ、そう言ったよく分からない道具をよく分からないままに動かしてしまうと、壊してしまったりする可能性もあるので、慎重に拭き取ったりと気は使ったのですが。
石仮面みたいなものがあっても困るし。……在りそうなのがちょっと恐ろしいような、でも嬉しいような。
あったらあったでちょっと興味あります。
「終わったぁ~!後は―――シルラーズさんのお部屋だけだっ!」
部屋の中に置いてある道具の量自体は一階が最も多いので、時間がかかってしまった。
一時間以上は軽く経過しているが、それでもまだ一番の目的であるシルラーズさんのお部屋は掃除できていないのである。
……いや、ね?本が凄いという事で、先に掃除をしようかなーと思ったんですよ。
「……ちらっとみてすぐに最後にしようって思いましたよね、ハイ……」
そのくらいの本の量だった。
屋敷の床が抜けるのではないかというほどの本、本、本。
ベッドに行くための、獣道ですかと言わんばかりの細い隙間以外は、テーブルや家具の上に至るまで本が山積みになっていた。
でも、道やベッド近くには栞が挟まった本もあったので、奥に行けば行くほどに昔読んだ本なのだろうという事は分かった。分かったからどうしたと言われたらおしまいだが。
―――とまあ、これ最初にやったらあと掃除する体力なくなるかも、という事で一旦扉を閉じ、他の部屋を掃除したわけでありました。
モップにバケツ、雑巾とはたきを手にして、シルラーズさんのお部屋へと向かう。さあ、覚悟を決めるぞ。
……その途中。ふわりと鼻の奥に、ラベンダーの香りが漂った。
「あれ?」
小さく、本当に静かに。頭の奥の方に頭痛がはしる。
気が付いたような、気が付かなかったような、自分でもよく分からない痛みだ。
そして気が付くと、俺の足は香りの方向へと歩いていってしまっていた。自分自身ではそれに気が付くことも頓着することもなく―――。
掃除用具を取り落し、ふらふらと……ああ、この先は確か行ってはいけなかったんじゃなかったっけ。
淡くそんな考えが浮かんだが、それも意識の奥へと消えてしまったのであった。
***
「……む?」
腕に微かな感触。
それを感じた瞬間に、シルラーズはベンチから立ちあがった。
この屋敷の特に重要部分に対して仕掛けられている結界は、外部からの干渉を防ぐだけでなく内部の人間が物理的に通った時にも反応するように作られている。
ちなみに反応時には五感に対してフィードバックが適応されるようになっている。……呪い返しの応用だ。
それはともかくとして、腕への反応は自覚なき侵入時、或いは中にいるモノが外部への人間に干渉して誘い込んだ時に返しが発生するように調整してあるのだ。
無意識を感じ取る占いの魔術の応用式だが、今この中に居るのはマツリ君ただ一人。
そして、彼女は普段では言ったことはきちんと守る質である。
彼女が通告を無視するときは、抑えきれない好奇心か、或いは自身がやり遂げなければならないことを見つけた時、そのどちらかだ。
だが、理由がそのどちらであっても腕への反応が起こるのはおかしい。
となると、中のモノが理由というわけだ。
「あれらならばもしかしたら反応する可能性はあるだろうとは思っていたが。まさか本当に動き出すとはね」
抑え込むための結界だというのに、マツリ君を見つけ出したのは彼女自身の性と肉体か。
兎も角、放っておくわけにはいかないか。
礼装である手袋をはめると、急いで目的地―――屋敷の隠し扉の奥にある、地下室へと向かったのだった。
***
「かい、だん?」
黒ずんだ手摺を掴みながら歩くのは、下りの階段。
なぜこんな場所を歩いているのだろうか。記憶が曖昧だ。壁か何かを通り抜けた様な、そんな気はしているのだけれど。
鼻の奥へと通じるラベンダーの香りは、より強さを増している。今ではフレッシュハーブよりも強烈な香りだ。……源へと近づいているのだろう。
足音を鳴らして階段を降りる度に、視界を黒い何かが支配していく。この世ではない、現実ではないどこかを強制的に見せられている。
酩酊状態にも似ているだろうか。それでもお酒では幻覚までは見ない。
……という事は。これはきっと魔術か魔法か、そういうものの一種なのだろう。
ぼんやりした思考でそう思った。
「――――ァ」
螺旋の階段を全て下り、辿り着いたのは一切の装飾の存在しない、ただ在るだけの石室。しかし、そこには渦を巻いている情念があった。