再びの水の中
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「も、どってきた……かな」
「……っ!!」
タイムの枝の中を抜け、光に飛び込んだ。
その瞬間に、記憶の旅の最中、ずっと身体を襲っていた痛みがさらに増加したのが分かった。
痛みとは生きている証。命がまだあると、叫んでいるという事。
つまりは、戻ってきたと、そういうことだ。
とはいえ、瀕死に近い怪我を追っていたのは事実。視界はいまだ霞んでいる。
けれど、その程度のことでは、俺のお節介を止める理由にならないのだ。
「この指輪を、どこで……いえ、これは。この指輪は、なに……?」
「ほんと、強情だよ君は」
抱いてしまった人への憎しみ。そして、ただ一度きりの恋心。
それらを同時に持つことができなかった彼女は、大切な人を殺めた人間への恨みだけを持つことを選んだ。
そして、大切な人への哀れみだけを残して、その記憶を。それを連想させる大切な品々を、冥府の底と後の自分が立ち寄ることのない、人の英知が集まる場所へと封印してしまった。
自分の記憶や感情を閉じてしまう、なんていうことは、普通はやらない。
けれど、魔法や魔術のあるこのセカイでは、やろうと思えばできてしまうのだ。
いいこととして働くこともあれば、悪い意味合いになることもある。
……今回はどちらとも言えないけれど、ね。
「鉄の苦手な君たちのため。君を想って作られた、象牙の指輪」
まあ、泣き女さんのなかでもかなり力の強いこの娘ならば、鉄等の、金属指輪でも問題は無いのだろうけど。
それでも、オネイルズは象牙を用意したのだ。あちらさんたちとの縁を大切にした、あの男は。
「記憶を封じたくなるほどに悲しいこと。それは、本当だった」
「お前、私の―――何を、見た……!」
「全部。怒っていい、蔑んでいい。けれど、もう逃げるのは終わりだよ。彼が待っているから」
大切な誰かを永遠に失う。俺にはまだ経験がないけれど、それでも想像するだけで痛みがある。
一人ひとりがかけがえのない人、なんていうけれど、流石にそれは建前。
実際は自分にとって、半身の如く近くにある人こそが、本当の意味でかけがえのない人で、それを喪うという事は、自分の身体を引き裂かれているのと同じことなのだ。
例えば、幼いころから自分を見守ってくれていた、人ならざる美しきモノ。
……そして、永遠に結ばれることのない筈であったその人外を愛した、奇特な人間。
互いが互いに、赤縄にて結ばれていたのだとしか思えないほどに奇跡的な恋を為した、二人だけの特別な関係。
それを切り裂かれたら―――そりゃあ、人を恨みたくもなるさ。
でもさ。だからと言って、自分にとってとても嬉しい気持ちまで失くしてしまったら、それはあまりにも悲しいじゃないか。
オネイルズが君を守った意味が、なくなってしまうじゃないか。
「黙れ、黙れ!人間が私を見るなッ!!!」
「それ、も!ちょっと違う、よ!」
泣き女さんの叫びに呼応して、再びセカイを構成する水が硬度を持ち、槍となって襲い掛かる。
その中で、俺がこのセカイに来てから散々自覚したこの身体の体質を、きちんと泣き女さんに語り掛ける。
「俺は半分、人間じゃないからさ」
だから、君たちに近い者として。オネイルズの代わりとして、存分に見させていただきます。
お腹から流れる血を見る。
空間の中の水にどんどんと溶けていく、血液。俺の一部だったもの。
……半分人じゃないとしても、血を流しすぎたのであれば、当然死ぬ。だから、これだけ血が流れていることはいいことでは無い。
でも、流れて行ってしまった血を有効活用することはできる。
どうせ自分の中に戻せるものでもないのだから、せめて存分に使うとしよう。
「『開け、鈴の花。この身をその毒で浸せ。痛みと代えた、記憶をここに!』」
水の中に溶けて行ってしまったと言っても、俺の血は千夜さんの力の混じった特殊な物。
そのため、力を籠めれば……魔力を生み出せば、すぐさま力と変化する。
血、というのは魔法のセカイでは最も強力な魔術を行使する際にも頻繁に使用される、強力な呪術道具だ。
古今東西、血を扱う魔法魔術はたくさんあり、それは召喚術だったり契約術だったり、強力な呪いだったりするけれど、まあ基本的にどれも効果が非常に高い。
―――契約の際に血を使うのは、その約束事に絶対性を与えるためである。
それだけ、生物の血液には力が宿るのだ。
かつて、血の伯爵夫人が血を浴びることで若さを保とうとしたように。
「私の心に触れないで―――もう、あなたの話は聞かない」
「聞かなくていいよ。思い出してもらうから」
腕を伸ばして水槍を操る泣き女さんの足元に、血を根の這う大地とし、小さな花が咲いた。
彼女はそれに気が付いていないけれど、それでいい。
触れれば花の魔法の効力が発揮されるから。
さて、じゃあ俺はこの重い身体を何とか動かして、槍を避けないとね……。
「ぃ、つぅ……っ!」
水をかき分ける。もう既に新しい魔法を使うだけの体力がないので、この抵抗の強い水を原始的にかき分けて移動するしかないのだ。
―――まあ、速度という面ではお察し。
当たり前のことなんだけれど、槍は俺の太ももをざっくりと貫通していきました。
お腹に続いて太ももまで、となると流石に本当に死ぬかも。
少年漫画とか、結構身体ズタボロにされても生きてたけど、現実はそうはいかない、よねぇ……。
ああ、でも。視界の端で泣き女さんは、花に触れた。
俺の身体は太ももを貫いた水槍で縫い止められている。その俺のとどめを刺すために歩き出した泣き女さんのその素足が、花弁に掠ったのである。
「ううああ?!何よ、これ、はっ!」
「……鈴蘭。ちょっと、痺れるけどごめんね」
綺麗な花には毒がある。それをその身で体現する、毒ある花の筆頭たる鈴蘭。
あの香りには記憶力を高め、集中効果を与えるという力があるのは有名だけれど、今回は魔法でちょっとその力を強化したのだ。
代わりに毒があるけど、そこは俺も傷を負わされているし、ちょっと我慢してほしいな。痺れるだけだし。
「入ってくる……記憶が」
「血は身体の一部だから」
その血を養分として育った鈴蘭には、俺がさっき見させてもらった記憶が込められている。
泣き女さんが棄ててしまった記憶が。
嫌な記憶でもある。だって最後は別れの記憶なのだから。
でも、それでも幸せだった時もあったのだ。だから思い出すべきなのだ。
頭を抱えて子供のように蹲る泣き女さんの頬に、一筋の涙が零れる。
俺を拘束している水の槍が解けて、自由になったので何とか泳ぎつつ泣き女さんの近くまで移動した。
「今更私にこんな記憶を思い出させてどうしたいのよ……」
「……はあ、そもそもだけどさ。忘れちゃダメでしょ」
こつん。弱々しい拳だけれど、泣き女さんの頭を小突く。
大事なものなんだから、出来たとしても忘れるなんてことやっていはいけない。
「人を恨む気持ちも分かる。それ自体は別に責めてなんていない。でも、理由のない憎しみなんて無意味だよ」
何故そこまでして人を恨むのか、それすら自分で忘れてしまったのであれば、最後にその憎しみは自分自身に還ってくる。
負の意味合いであったとしても、出発点は必要なのだ。いずれ終着点へと辿り着くために。
「だから、思い出して―――それで、これで終わりにしよう」