森からの帰還
「どうですか、長老様?」
「――――あぁ……この瞳に色を写したのは、随分と久しいなぁ」
懐かしそうに、顔の表情が緩まる。
人間と同じように感情で顔の造形が変わるのは、ちょっとだけ親近感を覚えた。
やっぱり、種は違っても同じなんだなぁって。
「……痛っ?」
身体の左側が痛んだ。
……なんだろ?ちょっと服の裾をめくってみると、トリスケルの紋様が発光していた。
さらに、紋様が今までは手の甲までだったのに、指の付け根まで伸びている。
とはいえ、紋様が痛みを発しているわけではなく……また、痛みも一度経験したことのあるものだった。
あの筋肉痛だ。この身体に変わってからしばらく俺を悩ませたあれである。
あの時に比べればまだましだけどね。歩けるし。
とりあえず気づかれないように、裾をさっきよりも長くして手を引っ込めておいた。
理由はまた今度聞きましょう。今はここで心配させたくないから。
「良いものを見させてもらったな、マツリ」
「えっへへーどういたしまして」
「礼を、しなければなるまい。なにせ数百、いや……数千年ぶりの光だ」
―――途方もない、年月だった。
ああ、そういえばミーアちゃん言ってたな。昔の夜は、今よりも長かったかもしれないって。
その通りだったのかも。だって千夜さんを知っているような感じだったから、長老様って。
千の夜を超えて今もまだ此処に在る……その歳月の途中で、光を喪ってもまだ此処にいる。
朽ち逝くと知っていても、まだ。
うん、光を届けられてよかったなぁ。少しでも役に立てたのならば、俺もうれしい。そのためならこんな筋肉痛、喜んで受け入れますとも!
「この記憶は、きっとすぐに役に立つだろう。お前ならば、役立たせることができるだろう」
長老様が息を吐いた。
淡く発光する新芽が俺の足元に芽吹いて……屈んで、それにちょっと触れてみる。
濃い緑色の単葉の若葉。それがその小さな葉いっぱいに湛えた滴を、手のひらで受ける。
さらに、口元へと運んで嘗めた。
「――――ぁっ?」
意識が飛びそうになった。これは情報量の違いだ。形式が違うかの如く、脳が受け入れることを拒んでいる。
けれど、この身体は千夜さんのもの……旧き龍である長老様の記憶も、受け入れることができるはずなのだ。
あとは、俺の意気込みだけ。意識だけ。
……さあ、手を伸ばそう。
水の中にいるような感覚の中、夢中で手を奥へと差し入れる。
その意識の葛藤。水から抜けて見えたものは、銅色の美しい女性が、ただひたすらに泣いている光景。
銅の色の髪は、夢と挿絵で見覚えがある。でも、あの挿絵の娘は幸せそうに笑っていた。
泣き女なんていう名前が似合わないくらいに、笑っていた。
―――しっかり伝えないと。ポケットに収まったままの象牙の指輪に手を伸ばす。
そうだよね。彼女には、泣き顔なんて似合わない。
「それでよい。あの娘を救ってやれ」
「っ……はい」
再びを目を開けた時、俺の目に映った光景は長老様のいる空間が閉じられていくというところだった。
左右の樹木やそれに巻き付いた蔦が道の中央へとうねり、塞いでいく。
もう、全ての用事は終わったということなのだろう。でも、その前に長老様に伝える言葉が一つだけあるんだ。
「また、会いに来ます」
「ふふ、待っている」
杖を振ってから横向きに跨り、閉じゆく樹木の道を飛んでいく。
じゃあね、おじいちゃん。
ちらりとだけ後ろを振り返り、もう見えなくなった長老様の姿を想う。
枯れ逝く龍。命を大地へと還す偉大な龍を。
あの人にとっては眠るだけなんだろうけれど……それまでの時間だけでも、一緒にいさせてください。
視線の向きを戻して、行きよりも数倍長い道のりを飛んでいったのだった――――。
***
「んわぁっ、ちょお?!ふぎゅうっ!!!」
「存在復帰。戻って来たか」
「おー……ただいま、プーカ」
よろよろと立ち上がり、足を折りたたんで休んでいたプーカに手を挙げて無事を知らせる。
いや、帰る途中、本当にすぐそこ(体感)でいきなり蔦に搦めとられたものだから、バランスを崩して落下してしまったのだ。
完全に尻もちの状態で落下した。なかなかにおしりが痛い……。
杖を本当に杖として使いながら、身体を支えた。あいた手で臀部をさすりながらですけどね。
「うう、ここの蔦だけは実体あったんだ」
「その通り。今回はここから先に行くときにお前はあちら側に行ってしまった」
プーカの言葉だと、やはり長老様のいる空間だけはこの森の中を自由につなげられる模様。
……もしかしたら、次元というかそれが違うのかもしれない。妖精の国の如くね。
でも鳥さんとかも来ていたし、どうなのだろうか。実際は聞いてみないとわからないなぁ。
「ま、それはまた今度でいいかなぁ」
色々と記憶とか思いとか……もろもろを貰ってしまったから、今はちょっと思考が鈍い。
有体にいえばちょっと疲れました。結構無理な魔法も使ったしね?
「ということで、ちょっとプーカ背中にのーせて?」
「却下だ」
「うむむ」
一瞬で断られてしまった。残念。
……はぁ、自分の足で歩くとしますかねー。
左足を若干引き摺りながら歩き出した。洋服のズボンをちょっとだけめくり上げてみると、トリスケルの紋様が太ももの中ほどまで伸びてきていた。
だから足も痛いのか。
もしかして無理に魔法使うと毎回こうなってしまうのだろうか。……ううぬ、やっぱり本腰入れて魔法学ばないと自分が痛い目に合うなぁ。物理的に。
「プーカ!」「プーカ?」「マツリいたそー!」
「なに。……なるほど、魔法を使ったな?」
「うん思いっきり」
「自重。無理を重ねれば後悔するぞ」
いや、でもあの時は魔法を使ってでも色を届けるべきだと思ったんだもん。
まあプーカは心配してくれているだけなんだけどね。そこはきちんと理解していますとも。
だから、そう……無理はしないようにします。今はそれで許してくれるとうれしいのです。
「治す。足を出せ」
「靴脱いだ方がいい?」
ぴょこっと頷かれた。了解しましたー。
靴を脱いでニーソックスもちょちょいと脱いで、左足を素足にする。
そして宙に浮かせたまま待、機……あ、ちょっとこれ右足だけで立ってるからつらい。
あ、杖。―――杖をもう一つの足として使ってバランスを取った。ふう……助かった。
「うひゃうっ?!」
「我慢。奇声を出すな」
「だ、だってー!」
プーカ(お馬さん状態)の舌が俺の足をぺろりと舐めたんだもの。
ちょっと暖かくて、湿っていて……なんといいますかとても言葉にしにくい質感が足を襲いました。
というかだめ、俺足の裏とかそういうところ舐められたり触られたりするの弱いんだって!
くすぐられるのとか死んじゃうくらいだし!いや死んだことないけど!
「あぅ、ふわ……んっ、んん!!」
「……声。抑えろ」
仕方ないじゃん弱いんだもん!
恥ずかしいのはこっちのほうである。ああ今顔真っ赤になっているんだろうなぁ……。うう最悪。
ちょっと涙が零れた。ピクシーがハンカチの代わりにとってくれた。ありがとね。
「完了。どうだ、痛みはひいたか?」
「ちょっとまってね……あ、うん!大丈夫ー」
素足のまま地面につけてみる。
草や樹、土が足裏に触れて柔らかい感触を返してくれるが、そこに痛みは存在しなかった。
もう一度ズボンを捲ってみる。あらま、紋様はまだ残っているんだな。
「励め。魔法の勉学を重ねねばな」
「うん。毎回プーカに直してもらうわけにはいかないもんね」
「その通り。我もお前に会えぬ時期というのもあるしな」
プーカがプーカであるというのなら、確かにそういう時もあるのだろう。
変幻自在にして様々な性質を持つ、この大妖精ならば。もうしばらくは先のことになるだろうけどね。
「じゃ、帰ろうか」
靴下をはき直そうと思ったけれど……やっぱりいいやと思い直して、もう片方の靴と靴下も脱いでしまう。
素足のまま森の中をゆっくりと歩く。森の気配、息吹を感じながら。
足裏に感じる草の感触とか、小枝や小さな石を踏んだ時の微妙な痛み。さらさらした土の気持ちよさ。
人に触られているわけではないのでそんなにくすぐったくはない。ただ、命を感じた。
―――また、来よう。この美しい森に。
とりあえず今は、さようならだけどね。