命の上に在る森、その主
「俺は茉莉です。魔法使い……の見習い、茉莉です」
「マツリ……ジャスミンか。良い名だ」
確かに、俺の名前の茉莉は茉莉花――即ちジャスミンの花から取られている。誕生日がジャスミンの開花時期である四月三十日だからだ。
ところで今って何月何日なんだろうね。雪とか降っていないし、暑くもないから秋か春のどちらかなんだろうけど、もしかしたら季節のない気候帯かもしれないからよくわからないや。
「えと、プーカに言われてここまで来たんですけど。何か用事があったのでしょーか?」
「お前を見たかったのだ。直にな」
「なるほど。……どうでした、俺って?」
「良い。そして好い」
概ね好感触といったところなのかな?
ならよかった。いきなり嫌われたりっていう事態も想定はしてたから。なにせ、旧き龍とも敵対したっていう千夜さんの身体を持っているわけだし。
「魔法はもう使ったようだな」
「はい。なんか、適当になんですけどね……使ったというか、出たというか」
「その表現は間違っていないだろう。お前は既に魔法を識っているが、知らないのだからな」
「……?」
”しる”という言葉が二回出てきたけれど、よくわからないや。
恐らく意味合いが全く違う筈だ。後ろのは俺が普通に知らないという意味なんだろうけど、じゃあ最初の”しっている”はどういう意味なんだろうか。
「近くに来てくれるか。動くのは大変でな」
「あ、もちろんですよー」
ちこう寄れといわれましたので言う通りに。
モーディフォードさん……長いから今まで通り長老様でいいや。
数歩。長老様の傍、触れることのできる距離に行くと、強い森の香りが鼻の奥へと突き抜けた。
それとともに、香りに宿るほんの少しの記憶も――――。
「まだ、見るには早いな」
すん、と鼻から息を吐いた長老様の言葉によって、今何を見ていたのかが分からなくなった。
……遮られた、のかな?
何だろう。深い、深い森の奥の記憶を見ていたような気がしたけど……思い出すことすらできない。
少し考えこんだけれど、まあいいかと思い直す。必要な時にまた思い出すことができるでしょう、たぶん。
そういうことで何かを見た、という記憶をさらに片隅に追いやって、長老様に改めて目線を向ける。
「…………っ」
――思わず、息をのんだ。
近づくことで分かったけれど、長老様の腕は地面と一体化していた。
翼も朽ち果てていて、無数の蔓草が巻き付いている。翼が健在と思っていたのは、その蔓草が翼膜の如き量だったからだ。
広大ゆえに見えないと思っていた後ろ半身も苔生していて、ところどころに洞穴が空いていた。
「この、身体は……?」
「見ての通りだ。言ったではないか……。私は枯草の龍だと」
表情は変わらないままだけど、言葉の節から苦笑交じりの感情が零れ出る。
長老様の言ったその意味を、ようやく理解できた。
この森は、長老様が統べている森なのではない。長老様がいるからできた森なのだ。
……長老様の命という土台、その上に形作られた森ということだったんだ。
枯草の龍。森は、草は……枯死してもなおその上に命を宿らせる。
土に溶け込み栄養となし、新しい新芽を宿らせ、生物を呼び、やがて再び広大な森を生む。だが―――。
「お前は、あるがままを見て――見える以上のものを見つめるのだな」
「……そんな大層なことしてませんよ。俺はただの一般人ですし」
思わず、長老様の皮膚に触れた。
ざらついた、大木の樹皮の様な鱗の質感。だけど、それは冷たい物ではなくむしろ温かみを帯びていた。
この人は、いったい幾つの時代をこうして森に融けながら見つめ続けてきたのだろうか。
人の身では想像できないほどの年月を超えなければ、この翆蓋の森は出来上がらない筈なのだ。
――だが。だが、それは。
「……それは、孤独ではないの?」
「それが、私の定めなれば」
「寂しくは、ないの?」
「私の命が融けたこの地に根付く、ここに生きる者達が共にある」
小鳥が、草木で編まれた翼へと止まったのが見えた。
きょろきょろと周りを見渡したその小鳥は、長老様の顔の近くに降りると、小さく二度三度鳴いて……地面に落ちた、翆玉の鱗を掴んで飛び去った。
代わりに、香り豊かな花を残して。
「プーカを始めとし、常若に住まう者達もいる。寂しさなど感じはしないさ」
その言葉は強がりなんかじゃなかった。だけど、と……触れた手に力が籠もる。
その生き方は……いや、朽ち方は、俺から見れば少しだけ物悲しいから。
ぐぐっ――そんな音を鳴らして、長老様の長い首が俺の身体を覆う。
「優しい娘だ。だがその優しさは、お前自身を危うくさせるだろう」
未来を識っているかのように断言する。
俺の知らない、俺の本質を見抜いているのか。
確かにそうなるのだろうとは、なんとなしに思った。
「だが、それを打破する力もまた備わっている」
「魔法――……?」
「そうだ。忘れるな。お前はすでに全ての叡智をその身に秘めている……あとはそれを紐解くだけでよいのだ」
きっと、俺の中にあっていつも何かと答えを示してくれるあの知識のことを言っているのだと理解した。
紐解く……つまり、あれは難解な書物と同じようなものだということか。
確かに、そう思えば納得ができた。自分から目的をもっていないと、知識さんは応えないのだ。
だって、何かを想って調べるからこそ本という物を開くのだもの。
扉である表紙を開き、少し懐かしいインクの香りを吸い込んで。文字を目と指で追って、ざらつく紙の感触を楽しんで。
即ちそれは宝箱。色褪せてもなお輝く、知識の宝石だ。
「善い魔法使いになれ」
「はい。いっぱい学んで、たくさんのことを見たいと思います」
「その言葉が聞ければ、十分だ」
俺を包んでいた長老様の首が離れ、元の地面へと戻る。
暖かさが空気と交じり消えてしまい、少しだけ名残惜しさというやつを感じたけど、気を取り直して長老様の顔の前に移動する。
そこに置いてある、小鳥が置いて行った花……ディルを拾うためだ。
「鳥さんが置いて行ってくれるんですね」
「時々、な。私は香りを嗅ぐだけしかできないが、それでもうれしいものだ」
孫からの贈り物、といった思いで受け止めているのかもしれない。
なら、その贈り物。もっとより良い形で渡してあげないとね―――。
さあ、知識さん!出番だから出ておいで……俺に、魔法の使い方を教えてくださいな!
「んっ……!」
ディルの香りを強く嗅いで、杖を軽く柔らかい土に突き立てる。
草木によって耕された大地がそれを優しく受け止めてくれた。
身体に巻き付くトリスケルの紋様が熱を帯びていく。その熱は身体全体に広がっていき、たくさんの魔力を生み出した。
心の中に潜む黒い多面水晶が、必要な知識を与えてくれる。この香りの、この薬草の本当の扱い方を。
ディルという薬草は、古のころから強い守護の力を持っていると云われてきた。
なにせ、魔女の呪いを払うための薬の材料の一つとして名が挙がっているほどである。
非常に強い香りと、鎮静作用が特徴的なハーブ。確かにいい香りで、料理にも扱われることが多いけれど―――それだけじゃもったいないよね。
「『煙りくゆるタイムの小枝、霧に交わるセージの葉香』」
ミールちゃんに、案内の魔法を出したときにも使った詞。俺だけの呪文。
「『木の末このうえ摘みて、転じ、出いずる万象をこの身へと』」
だけど、これだけじゃちょっと足りない。
「『香りを強く。思いを強く。目に映らんばかりの幸福を!』」
杖を掲げると、淡い色を持った霧煙が杖の下部、パイプの口から吐き出された。
うん、ちょっとこのスペルは俺のイメージというか、思いが先行してしまったけど、まあ……。
偶には、こういう魔法もいいでしょう。
魔法なんてほとんど使ったことないのに何を、とか言わないでもらえると嬉しいのですよ?
それはともかくとして……うん、魔法はここに成った。
霧の煙はこの空間を広く、広く覆っていく。
香りは他の五感へと作用し、思いと記憶を繋げていく。
さあ、この森全てに広がっていけ――美しい、長老様が作り上げたこの一つのセカイを、長老様自身の瞳に映すために!
……そう願って杖を振った。