アルラウネ
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「雨上がりだから、空気が澄んでいてとてもいいね」
未だ雨露が残る妖精の森の草花。思わずこぼれ出てしまうほどに、今日の妖精の森の空気は気持ちが良いものであった。
この森の中に殆ど人は立ち入らない。獣ですらその数はとても少なく、故にここは地上におけるあちらさん達の楽園だ。眼に入るほどにいるとすれば鳥や蝶の類だろうか。
だからそんな森には、獣道のような物すらない。でも整備されていない森のように、草木が乱雑に生え散らかっているという訳でもない。
妖精と呼ばれる彼らが住まう場所である以上、一定の秩序やルールに従って草花は育っているのである。偶に、変なものもあるのだが。
「そうだな。水の気配は良いものだ」
「水棲馬にとっては当然、そうでしょうね。私はあんまり泳いだこと無いから、水の良さはそこまでわかんない」
「今度背に乗せてやろう」
「それ、水の中に溺れさせられる奴じゃない?」
半眼で素馨が宙に浮かぶ水蓮の方を眺めていた。
アハ・イシカが背に乗せた子供を水中に引きずり込んで殺してしまうという逸話は有名なので、まだこちらに来て日の浅い素馨でも既に聞き及んでいるらしい。
プーカもそうだが、妖精馬というやつは常に人の味方である訳ではないのだ。気性が荒い場合も多く、害為す事例も多い。
かつては魔法使いが人と彼らの中に立ち、衝突を避けていたけれど、もうあちらさんたちが人の前に多く姿を現すことは少なくなっているからね。それに加えて魔法使いもその数を減らし、結果として双方とも人前に出ることは減ったのだ。
未だに人に恨みや怒り、害意を持つあちらさんもいるにはいるんだけれど―――彼らに関しては、直接害となってから語ればいいだろう。
さて。そんな訳で妖精の森を進むこと小一時間。少々休憩やあちらさんの住まう場所特有の、移り変わりの激しい美しい景色を見るといった事を挟みつつも、着々と妖精の森の奥へと入っていく。
「この辺りから、不思議な音がし始めるんですけど、これは何なんでしょう」
「ん。妖精の森はこの土地に古くから存在している森で、その起源はカーヴィラの街の成立よりはるかに古い。そして古い土地には、相応の存在がいるものさ。つまり」
森の奥、遠くで何かが蠢くのが見える。薄らとした影で、姿を直接表しているわけではないけれど。
少なくとも、只の人が見ればそれだけで呪われてしまうような、そんな存在だ。
「妖精の森は深くに行けば行くほどに、古いあちらさんやそれに準じる存在の縄張りばかりになる。素馨が聞いたその音は、彼らの縄張りに入ったという事だよ」
「………安全なんですか?」
「害意を持たなければね。彼らだって、今更人と事を構えたくはないさ。あくまでも妖精と人々は隣人なんだから」
当然ながら、侵略の意図を持っていれば即座に反撃してくるだろうけれど、ね。引きこもり気質のものが多い古いあちらさん達は、けれどその力は未だに健在で、強力なものが多い。
中には龍と並ぶか、超えてしまうあちらさんだっているのだ。プーカも新しき龍を滅することが出来るほどの力を持つあちらさんの一人である。
「そもそも普通の人間程度では、妖精の森の奥へと進むことは出来んだろうがな。深部などより不可能だ。表層を惑わされる程度が関の山………たとえ、我らに気に入られる性質の者であっても、それが限界だ」
「水蓮の言う通り。こうして異質さを感じ取れるほど奥へと足を踏み入れることが出来る時点で、魔法使いという存在は彼らにとって特別だという証拠なんだよ」
なお、魔術師が入れば即座に敵対と見なされることもある。シルラーズさんのように、アストラル学院へと所属してあちらさん達に名が通っていれば話は別だが。
………さて。そんなあちらさん達の縄張りを通り過ぎて、更に少し奥へと歩いていく。
「あれ………?音が、弱くなってきた?」
「うん。そうだね」
一応、縄張りの中ではあるのだが、素馨が感じた通り、俺たちが足を踏み入れた彼らの”縄張り”。そこから感じられる魔力というものは、随分と弱々しいものであることが理解できた。
基本的に強力なあちらさんが多い妖精の森の深くにおいて、これ程弱っている例も、弱ったまま放置されている例も珍しい。
いや、まあ。あちらさんはこの縄張りの主がどんなものか知っているからこそ、手を出さずに見守っている訳なんだけれど。
枯れ落ちた草木を素馨が踏む。くしゃりと音がして、その視線は静かに上へと向いた。
「これ、は?」
―――薔薇が散る。その色は随分と褪せて、今にもその命は枯れ果てそうになっていた。
巨大な薔薇が樹にまるで寄生するようにして根付く。しかし薔薇を構成する幾つもの花弁は今この瞬間にも散り続け、その命を削っていく。
間違いなく、その薔薇は俺たちの家に突如として表れた物と、同一ものであろう。
枯れ落ちるその様は、どこか一種の美しさのようなものを宿していて。素馨の視線が一瞬だけ輝いて、瞼を閉じたのはそれが理由なのだと思う。
「ここから、あの花は来たんだろうね」
「えと、一体どうやって?」
「………種を飛ばす、というのは違うだろうね。何せ、彼女は普通の草木ではないのだから」
俺が目を伏せ、花弁を見れば巨大な薔薇は動き出す。乾燥した蔓は老婆のような緩慢な動きで、俺の手を取った。
「………千の夜の魔法使いとは………碌に、挨拶も出来ぬこのような様で申し訳ありません」
「気にすることは無いよ。礼節を求めてはいないからね」
声は花弁が振動して生まれている。彼女は、あちらさんの中でも寿命が明確に存在している種の一つだ。
彼女たちはその樹木に宿るため、樹の寿命が己の寿命と同じとなる。今にも枯死する寸前の樹木が倒れもせずに立っているのは、彼女というあちらさんが宿っているからであり、そして彼女という存在が枯れ落ちそうになっているという事は、あちらさんの力を以てしてもどうしようもない終わりが近づいているという事でもある。
「さて、素馨」
ほんの少しだけ、あちらさんへと魔力を注ぎつつ、後ろを振り返る。
「彼女の名前は、何だと思う?」
「―――アルラウネ。樹々に宿るあちらさんの一種類、ですか?」
「うん。よく勉強しているね、正解だ。彼女たちは本来、人に近い姿も持てるんだけれど………」
魔力を注いだというのに、未だ彼女………アルラウネ本体の手足である蔓は垂れさがったまま。最早、人としての形を保つことが出来るほど、彼女には力が残っていないのだ。
「だからこそ、命を繋ぐために私たちの家の庭へと、種をまいた………?」
「種をまくという表現は少しばかり違うけれど、凡そはあっているよ」
あと、強いて言えば繋がれる命に、同一の精神は宿らないという事だろうか。
家に咲く巨大な薔薇は、目の前のアルラウネにとって娘に近い存在である。最後の魔力を大地に注ぎ込み、そうして芽吹いた次なるアルラウネ。それこそが、家の薔薇の正体なのである。
ちなみに、樹に宿るあちらさんは何人かいるけれど、アルラウネはとくに有名なものの一人だったりもする。
「………それで、魔法使いの方々。このような老いぼれに、一体何用か?」
「うん。それはね―――君の代替わりの、手助けをしに来たんだ」
翠の瞳を細めて、俺はそう微笑んだ。