龍は人へと変わり、そして―――
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彼女が目を覚ました。透明な瞳と、翠の瞳をその眼孔の中におさめて。
くっきりと色合いの異なる彼女のそれとは違い、二つの色彩の混じり合った宝石が力を喪ったように俺の掌の上へと墜落した。
否。これは力を喪ったのではなく、その魔逆である。対価として支払われたこの宝石の中には、ヴィーヴィルの力がそのまま移されている。それは不可逆的な物であり、最早スフェラという名の人間である彼女には一切関係のないものではあるんだけれどね。
「朝、か?」
「そうだよ。一度目を開いたあとに、もう一度眠ったんだ」
魂も肉体も、既に人のものではあるけれど。その認識との差が疲労を生み出したのだろう。
「先生、服を持って来ました」
「ありがとう素馨。じゃあ、彼女………スフェラに着せてあげて?」
「分かりました」
素馨には彼女が目覚めた後に着せる服を買ってきてもらっていた。街を歩くだけであれば、素馨は俺より問題がないからね。
水蓮もいることだし、変なものにちょっかいをかけられることも少ない。
あとは、今の俺には眼がないからね。見るには見えるけれど、カーヴィラの街には勘の鋭い子たちがたくさんいる。詳しく聞かれて心配させることも無いでしょう。
素馨が買ってきた服に袖を通したスフェラが立ち上がる。少しばかりよろけたけれど、素馨と水蓮が彼女の手を取って支えた。
「………随分と、縮んだのね」
「元の私を人間の年齢にすると、この程度なのだろう。とはいえ素馨よりは高いぞ」
「いやあなたの人間としての精神年齢やら常識やらを比べれば、多分私の方がお姉さんだから」
「ははは。まあそうだね、常識は学ぶべきだろう。何せ君はもう既に、只の人なんだから」
常識の埒外の存在ではないのだ。生きるために、苦労もするだろう。
世界樹の洞からスフェラが身体を出すと、役目を終えたかのようにその苗木は朽ちていく。徐々に、その輪郭を灰へと変えて。
「運が悪いね。ここに根を張るべきではなかった。それでも命の糧となったことは、君が誇るべきことだろう」
もはや永遠の眠りについた世界樹の苗であっても。だからこそ、というべきか。その破片を命として宿したものが生きたのであれば、生まれたことに意義はあったのだろう。
灰へと変わったその樹は空へと昇り、遥か遠くに聳える霊峰を超えて消えていく。いつか大陸の果ての無効にある北方、ヴァイキングの地に行くことがあれば、そしてその地に見えることがあれば。
この記憶を、注ごう。―――さて、だ。
「んー、んー?」
「………なんだ?」
「ん。スフェラ、君………まだ少しだけど、魔力が残ってるね」
鼻を動かせば、うん。やっぱりだ。
かなり薄まって入るし、まともに術として使えるようなものでは無いけれど、彼女の身体にはまだほんの少しだけ、魔力が宿っていた。
恐らくは俺のせいである。彼女に譲渡した眼球から魔力が逆流したのだろう。
「………確認してみる」
「いいや、ちょっと待ってね」
まだその魔力は形質を決定付けていない。無色透明で、どんな色にも染まるものだ。
未だ龍の形質を深く精神に宿している彼女が、その魔力を確認して、色を与えてしまっては果たしてその魔力がどうなるのか分からない。
そもそもが俺が蒔いた種でもあるからね。きちんと、処理はしておくさ。そこまで含めて、魔法使いの仕事なのだから。
指を伸ばして瞼を閉じるスフェラの左目に触れる。そして、ほんの少しだけその魔力に色を与えた。
「この世界をたくさん見て、調べて、知って。そして、君の人生を送るんだ」
この残り香のような魔力は、そのための道具としよう。
スフェラの身体に宿った魔力が彼女の左目に集中する。そして眼球の中で固まり、その瞳と同化した。
―――翠の瞳の中に薄らと、花の形が現れる。それはヘンルーダやエニシダ、アグリモニーなどで………即ち。看破の力を与える、魔眼となった。
「見えるものは少ない。あちらさんやゴーストのそれ。簡単な呪いとか、後はそうだね、宝石を始めとした鑑定には、効果を発揮するだろう」
「………!」
「あの、先生。本当に、スフェラの対価って釣り合ってるんですか?」
「うん?釣り合っているとも。これは只の贈り物さ」
でもそこで疑問を持つのは善い事だよ。とはいえ秘密を教えるわけには行かないけれどね。
師匠にも師匠の意地というものがあるのです、ええ。まあそれはさておき。しっかりと瞳を宿したスフェラが大きく息を吸った。
黄金の髪が揺れて、そろそろ成人かという頃合いになった、ほんの少しだけ幼さを残す顔立ちが淡く緩む。
それはつまり、微笑みだ。心の底からの優しい笑みを浮かべて、人へと還った存在は言葉をはする。
「ありがとう、ございます。これで………私は、私の人生を送れる。きっと、そう思うんだ」
「今回は俺だけの力じゃない。だから二人で、いや。三人でその感謝を受け取るよ。素馨、水蓮。前に出て」
「は、はい」
「………私まで、か?」
「そりゃそうだよ。じゃあいいかな。復唱してね」
帽子を脱いで、胸元へと。
「「君の感謝を受け取ろう。君の行く先に、幸が溢れん事を」」
そう告げて、もう少しだけ言葉を付け加える。
「―――何かあったら、また相談しに来てね。友人に力を貸すのは、当たり前だから。それから、これを」
懐から一枚の紙を取り出すと、スフェラへと渡す。不思議そうにそれを見る彼女に開けてみてと催促すると、再びその首を斜めに傾げた。
「まずはカーヴィラの街に。そして、その場所に行ってみるといい。きっと君が生きる上で、とても楽になる」
「分かった。ありがと」
「もうお礼は大丈夫だよ。これはそう、本当にただのお節介だからね、何も言わずに受け取ってくれればいいんだ。街に着けば、その紙が鳥となって案内してくれる」
スフェラが頷き、そして―――この物語で、俺たちが関わるのはここまでだ。
魔法使いは役目を終えた。フェアリーゴッドマザーなら、彼女たちのその後の道のりを見守るのだろうけれど、俺たちは彼女の友人であって、主人でも従者でもない。
だから、見守るのではなく、ただ善き人生になるようにと、祈るだけなのだ。
故に。ここから先は、彼女の話。人の世に生きる、彼女のための、ほんの少しの後日譚。初々しい、恋の行方の物語。
複雑な色彩の宝石を指先で転がしながら、魔法使いたちはその場を去った。ふわりと風が吹いて、舞い散った青葉が街へと流れる―――。