人還り
龍の人還り。
そもそも、この世界における新しき龍という存在は、正しく生物という概念の頂点に立つモノだ。ヴィーヴィルだってそう。
人間や魔獣が世代交代を行い下った存在である魔物など、比べ物にならない程に強力で、無茶苦茶な存在。魂も肉体も、その全てが優れている。
魔女大戦の時代から生きている龍種は流石にもうその個体数を少なくしているけれど、決して居ないわけではないのだ。長い時を生きた力ある龍にとっては寿命という概念すら、その身体を蝕むことは難しい。
………ありとあらゆる生命の分岐。その全てを、龍は身体の中に備えている。魔力や命を対価に、龍はそれを自在に操り、好きな姿へと変わる。
新しき龍の原種とでもいうべき物は、原初の命そのものだ。
そして、或いは混沌とも呼ばれ、数多に名を変えるそれは、生命の可能性をすべて内包したものであった。混沌の内より生まれ、形を成し、秩序を以て概念存在たる旧き龍とは全く別の龍となった彼らをこそ、”新しき”龍と呼称する。
つまりだ。龍というものは本来何にでもなることが出来るのである。
「人還りとはそのままだ。龍としての特性、その命や魂に宿ったものまで含めてを人に戻す」
「先生、人に成るとは違うのですか?」
「うん。全然違うよ。龍は全ての生命の先にいるものだ。人間も動物も、そして魔物ですら最終的な進化の果てに向かうのは龍という存在なんだ。けれど、ヴィーヴィルは既にその龍だろう?だから、彼女は人に成るのではなく、かつての通り道である人へと還るんだ」
生命というものは世代を超えて進化を続ける。ダーウィンのいう様にそれは自然による選択の結果の進化であるのか、或いはダーウィンに否定された獲得形質のように環境に適応して進化していくのか、といった思考はここでは関係ない。
普通ならば生まれた生命は長い年月をかけて進化をするのだが、最初から全てを持った命から生まれた最初の龍から派生した新しき龍は、通常の生命とは真逆の、進化の終着点から生まれたモノたちなのである。
魔力を持つのも、高い知性を持つのも、長い寿命を持つのも、空にも海にも大地にも瞬時に適応できるのも―――そう言った側面が影響している。
「『それは、私が人へと姿を変えるのと何が違うんだ?』」
「言っただろう?君は、龍としての特性をすべて失う。勿論、魔力は残るだろうし、龍であった痕跡が全て消え失せるわけではないけれど………二度とは龍に戻れないし、君が今こうして自由に生きられる力や環境は無くなるだろう。新しい命で、新しい生き方をする事になる。だから龍が人に化けるのとは全くの別物なんだよ」
「マツリ。龍が人に還ったなど、聞いた話もないぞ」
「実例はないだろうからね。そもそも、如何に龍だとしても、彼らはあまりにも力が強すぎる。人に還るのは、彼らにとってはあまりにも難しい。言い方は悪いけれどね、人間というものは龍にとってはあまりにも矮小すぎるんだ」
何せ、龍と人では身体から魔力、そして魂の形質に至るまで、その全てが別物と言ってもいい。規格が全く合わない。
やりたいと思う龍が少ないのもあるし、出来る龍も殆どいないため、神話においてすら龍が人へと還ったという話はなく、それ故に大抵の龍と人の恋物語は悲恋に終わる。
あったとしても、龍が人に姿を変えて交わったというたぐいの物だけだろう。これは恋愛というよりも婚姻による契約にも近く、英雄が力を得るための手段となっていることが多い。
「つまり、例え魔法に長けたヴィーヴィルでも取ることはまずない方法、ってことですか?」
「その通りだよ、素馨。厳密に言えば、ヴィーヴィルですら単体では実現不可能な方法なんだけどね」
―――龍ですら出来ないこと。それを、ではどうやって実現させるのか。
それこそが、先程の話に出た対価であり、そして俺達魔法使いの出番という訳だ。
「一応、魔法使いではなくあちらさんも似たようなことは出来るだろうけれど………あちらさんは本質的に人間を知らない。だから、得意としているのは俺達だろうね」
「『………妖精は人間の古き友だろう』」
「気障な言い方をすれば懐かしき友という事に変わりはないけれど、人は移ろいやすく、けれどあちらさんは変わらぬことが多い。その点で決定的だ。巨木と川の中に転がる石を比べるようなものさ、対比にもならない」
まあ、違うからこそあちらさんは人の隣に立ちたがる、という側面もあるんだけれどね。さて。
「とはいえだよ。この選択も、当然リスクはある。まずは不可逆的であるという事。人に還ったらもう戻れない。人としての人生を歩むことになる。そして、君は若い―――テレンティウスさんはもう随分とお年を召している訳だから、君の命が尽きるまで、ずっと一緒にいるという事は無理だろうね」
さらにと続ける。
「また、この手段を取るには相応の対価と、痛みが伴う。その痛みに、或いは喪失にいつか後悔を覚えるならば、それはいつか悲しみに変じるものだ。そうなってしまえば、俺たちは手助けは出来ない。無作為に救いに見える悲劇を振りまくつもりはないからね」
けれど、と。言葉を続けた。
「人として、ただ恋を求め、愛を願い、傍に立つ。別離の悲しみすら受け入れて。それを選ぶのであれば、決して悪い決断ではないだろう。選ぶのは君だ。君はどうしたい?」
さあ。異類婚姻譚の結末としては邪道かもしれないが………それでも。それが納得した結果であるならば、終わりは悪いものにはならないだろう。
魔法使いは道を示し、決断したその背を押すだけだ。結局は、当人の在り方による。
ヴィーヴィルが少しだけ俯き、じっと考え込む。暫く、風が通り抜ける音だけが響いて、ようやく彼女がその透明な瞳をこちらへと向けた。
「『後悔はしない。寧ろ、今このまま何もなく、あいつとの最後の時間を過ごせなくなることの方が―――消えぬ、後悔になるだろう』」
「うん。分かった………じゃあ素馨。龍の人還り、手伝ってね」
「わ、わかりました!」
「早速始めるよ。いいね?」
流石にこれ程難しいモノとなれば、主導するのは俺だけれど、経験を積むために素馨も一緒にやるべきだろう。
儀式とか、契約とか………まだまだ、俺が素馨に教えるべきことは残っている。ゆっくりと、一つずつ弟子に授けよう。
魔法使いの在り方もね。魔法は人の業からは遠く、魔女のそれに近い。使い方次第では災いとなる。だけど、正しい使い方をすればそれは多くの幸福を齎すのだ。俺は、素馨に善き魔法使いで居てほしいと思うから。
「こほん。じゃあ簡単な授業も兼ねて、教えながらやろうか。まず、龍を人に戻すには、相応の場所と道具が必要だ。龍の命は全ての生命の特徴を持っているため、魔力を用いれば自在に変身も先祖返りも出来るけれど、先も言った通り人還りはその龍の権能としての先祖返りとは全くの別物だからね」
「その点で言えば、神凪の国の龍角とは全然違いますね」
「あれも一応先祖返りに近いんだけどねぇ。でも、妖人と新しき龍では生命のルーツが違うから」
妖人の場合は血の大本である魔獣へと戻っている。そして、新しき龍はあくまでも生命、命だ。
魔物は兎も角として、魔獣は本来の命の流れとは違い、千夜の魔女が生み出した特殊な命なので、如何に龍とはいえその形質を発現させることは出来ない。
なので妖人の龍体は、彼らだけのものなのである。まあ、大陸の東の大国には所謂、水の性質を持つような蛇の如き龍もいるんだけどね。
それはさておき。
「素馨は場所を探して欲しい。人還りの儀式には相応の魔力が必要だ。そして広い場所もね。開けていると尚良いけれど―――細かい場所は、君の感覚に任せる」
「………分かりました!」
「気を付けるんだよ。妖精の森は色々と誘惑がいっぱいだからね」
水蓮が傍についているので、大丈夫だとは思うけれどね。
「えと、対価はどうするんですか?」
「それについては、全てが終わった後に復習を兼ねて教えよう。今は、場所探しに集中するんだ、いいね?」
「………はい。じゃあ、行ってきます」
こくんと頷いた素馨が走っていく。それを見送ると、俺はそっとヴィーヴィルに対して視線を向けた。
「じゃあ、ここからは道具―――対価の話をしよう。準備と、覚悟はいいかな?」
「『………ああ』」