帰路
***
「やあ、早いねマツリ姫。もう仕事を終えた―――と、単純に言い切っていいものかは分からないがね」
小舟に降ろされたロープを掴んで海賊船の上に上がると、海賊船の主であるゼーヴォルフに差し出された手を取り、甲板に降り立つ。素馨はシルラーズさんに抱えられながら上がってきていた。
「そちらが例の?」
「ええ。俺の弟子の、素馨です」
「はじめ、まして」
「ふむふむ、良い目をしている。自由と興味を抱く輝かしい瞳だ………さて」
船員たちに目配せをすると、筋骨隆々の男たちが小舟を船の中へと収納する。それが終わると今度は帆を張る準備が始まった。
一通りの指示を出し終わったゼーヴォルフは俺達に向きなおると、口を開く。
「森の香りが染みついているね。私たちはこの海の上に三日ほど滞在していた。同じ三日間で、君たちから潮の香りが完全に消えるとは思いがたい」
「勘が良いな。正解だ、我々は………いや。より正しく言うならば、神凪の国はというべきだろう。彼の国は外の世界と時間の流れが違うようだ」
「大結界の成せる業でしょうね」
軽く素馨の頭を撫でる。恐らくは時間の差異を認識しているのは孤散様を始めとした三柱の神々しかいないのだろう。
それを考えれば、神凪の国の歴史の中で幼い素馨に別れを告げた彼女の両親は、外の世界では過去の人物になっている可能性がある。
使命を持ち、その使命を果たしたとしても、それはもしかしたら伝説に語られるものとなっているかもしれないのだ。
―――だからこそ、この世界を素馨が見渡すその果てに、彼らが残した足跡を見つけることが出来るかもしれないけれど、ね。
「人知を遥かに超えた魔法の類か。神凪の国に常人が踏み入れない理由としては、納得の一言だね。では、お嬢様方とシルラーズ、もう出航しても?」
「おい、私をお嬢様の括りに加えない理由は何だ?」
「そういう齢でもないだろう、お互いな」
肩をすくめたゼーヴォルフに、シルラーズさんも薄く笑むと、天罰の獣号の帆が大きく張られ、風を掴む。
波を切って海賊船がゆっくりと進み始めた。
背後に映る神凪の国の輪郭が徐々に小さくなっていく。もう、素馨は後ろを振り返らなかった。
「陸に戻れば、俺の友達が待っている。素馨に紹介するよ」
「………はい!」
大きく風を受け止めた天罰の獣号は速度を増していく。潮風を受けて揺れる帽子を押さえながら、俺たちは長い長い航海を終えて、大陸へと戻ったのであった。
***
「おっきな街、ですね」
「航海都市アルタは確かに都市国家の中では大規模な部類だが、普通の国家はこんなものでは無いぞ。特に王都となれば、な」
「王都………」
「俺もまだ王都には行ったこと無いですねぇ」
実はこの世界の地理についてはまだまだ知らないことが多いのである。さて、それはさておき。
波を切る速度が徐々に落ち着き、ゆっくりと港に停泊する。桟橋に足場が渡されて、俺たちは久方ぶりに地面へと降り立った。
視線をあげれば、青い髪が揺れて俺をじっと見ていた。
「おい。無事か」
「うん。大丈夫だよ」
「ならば良い」
俺の身体をさっと見渡すミールちゃんが次に視線を俺の横に立つ素馨に向けた。
「また、人を誑かしたか」
「ちょっと、変な言い方しないでよ」
「似たようなものだろう?まあいい、国から引きはがしてまで連れてきたという事は、それが必要だったという事だろうからな」
「まあね。レクラムちゃんは?」
「宿で本を読み漁っている。知識はあっても悪いことは無い、だそうだ。それに関しては私も同意だが、あいつはこの街で宿をとってからずっとそんな有様だ。不健康にもほどがある」
「あはは………」
まあ確かに、外に出なさ過ぎるのは健康に悪いけれどね。思わず苦笑すると素馨の背中に手を当てた。
「この人は俺の親友のミールちゃん。双子の妹に、ミーアちゃんもいるけれど、今この場にはいない」
「………よろしく、お願いします」
「ああ。馴染んだ場所から移ることは色々と大変だろうが、私たちは騎士だからな。手伝おう、なにせお前は友の弟子だ」
小さく頷く素馨にミールちゃんは満足気に笑うと、俺の方にケープを放り投げてきた。
薄らと透き通るその白い布は恐らく、俺の顔を隠せという事なのだろう。まあアルタで船に乗るまで俺は変装していたわけだし、不用意に姿をさらし続けることはやめておいたほうが良い、ということだろう。
頭にふわりと被るだけで、大分顔が見えにくくなる。透き通っているおかげで内側からは景色を見ることも出来た。
「………先生、なぜ顔を隠しているんですか?」
「色々とね。神凪の国ではおおらかだったことも、大陸では気にする必要が出てくる、そんなこともあるんだよ。逆に自由になることもあるけれどね」
「なるほど?」
素馨にも千夜の魔女という存在についての話を、いつかしないといけないね。
簡単に魔法をかけて、俺という存在の認識を誤魔化す。身体と精神がより強く馴染んでいるため、行きよりもちょっとだけ強めだ。
逆にあまり強すぎると違和感になって、秘術を操るものの眼に触れる可能性がある。何事も丁度いい具合で止めておくのが良いのだ。
「さて、と。ゼーヴォルフ海賊団の皆さま。ありがとうございました」
「こちらこそ良い航海だったよ。もしもまた、海で何か用事があれば私たちを頼ってくれ」
手をあげて片目を閉じて笑ったゼーヴォルフがそう言うと、船の上から船員たちも手を振ってくれた。
俺も振り返すと、天罰の獣号に再び帆が張られ、ゆっくりと港から出航する。なにかと忙しい海賊船だ、別の仕事があるのだろう。
とにかく、頼りに出来る人が増えた、それだけでとても良い繋がりと言える。今は、それだけでいいのだ。
「これから、少し時間をかけて俺たちの家へと戻る。素馨も、そこで俺と一緒に暮らすことになると思うけど………いい?」
「もちろんです。そうじゃないと、いやだ………」
「ふふ。そっか」
ここまで連れてきて一緒に暮らすのは嫌とか言われても、それはそれで困るんだけれどね。
まあ素馨から言質も取れたことだし。
―――長い長い、航海の旅を終えて。帰路に就くとしようか。