闘争は明けて
***
夜明けに一つ、炎が灯る。
ぽつり、ぽつりと………そうして幾つもの炎が集まって、徐々にそれは獣の姿を成す。
「この地に根付く神性ならば、そうして蘇ることも出来るわけですね。流石です」
「………馬鹿を言うな、お主ならば分かっておったじゃろう。本気で妾を殺すつもりであれば、そのように呪っていた筈じゃ」
炎の獣がそう溜息をついて、それが凝縮する。一瞬の光の後、炎は孤散様の姿へと変わった。
「行け、マツリ。素馨の元へ」
「はい。孤散様もお元気で」
「さてな。これが今生の別れかどうか。お主にすら、それは分からんぞ」
そうですね、と答えるには少しばかり迷う。俺も素馨も、命は長い部類だろう。だからいずれ、特に素馨は里帰りすることになるかもしれない。
その里帰りが良い理由なのか、それとも決別の果てなのか。或いはもっと違う原因なのか。そればかりは、誰にも分からないから。
「その時の、彼女たちの選択を信じるだけです」
胡坐かいて座る孤散様の口元が、ふと弛んだ。
「どこまでも人を信じるのじゃな、本当に。良い、何かあれば妾達を頼れ。神凪の国に住まう妖人は人の世で暮らすには難しく、故に大陸の人々とは距離を置くのが最適じゃ。そればかりは如何なる闘争の果てでも、変えられぬ」
俺もその言葉には頷いた。あくまでも、俺と孤散様が今回争った内容は、素馨を神凪の国の外へ出すためのものだ。
決して神凪の国の鎖国そのものを解くようなものでは無く、特例を一つ認めてもらっただけに過ぎない。
魔獣の血をひく神凪の国の住人と普通の人間とが交流することは危険が伴うのも事実である。孤散様の鎖国という判断は、決して間違いではないのだ。民を守るためという点を考えれば、特に。
神凪の国の周辺には大規模な魔法も施されているし、閉ざすという事が物理的に可能なのもその理由の一つだろう。
「じゃが、血族のためならば話は別じゃ。鎖国していても向かわせることのできる力はある。故にな、マツリ。素馨も含め、困ったら妾達を頼れ。手が足りぬ時もあろう、その時に我らが代わりの腕になる」
「………ありがとうございます」
淡く微笑むと、杖で地面をたたく。煙霧が草木を成し、それが渦巻いて俺を取り囲んだ。
蔓草が編み込まれて、そして眼前の景色が切り替わった。
「―――魂は肉体の奴隷じゃ。肉体が変じれば魂もまた、そうなる」
火の粉が落ちるように、炎の女神が呟きを零す。
「人間であったというマツリの魂が、英雄のそれであれば肉体の変質にも耐えよう。しかし、じゃ」
己の腕を見て、言葉は続く。
「そうではない。そうではないからこそ、あやつの肉体は千夜の魔女の物へと変わった。ならば」
あれの人を信じるという思いや、狂気的な献身性はあやつだけモノではないと言えるのではないか?
伝承に語られる古の魔、この世に生まれ落ちた最も巨大な呪いとされる千夜の魔女は果たして、その伝承通りのこの世を憎悪する怪物であったのか。
あれの魂の本質にあるものが、今世の千夜の魔女たるマツリの在り方に強く影響を与えているというならば。それは、妾達すら知らない古の千夜の魔女には、何か秘密があるという証拠ではないか。
「最早、古の大戦を覚えているものは数少ない。旧き龍ですら、大戦に参加したものは多くが死に絶え、今となっては枯れ木のような老いぼればかりじゃ」
概念が形を成した旧き龍には凡そ寿命と呼べるようなものはないが、時代が進むにつれて奴らもその存在感を喪いつつある。
奴らが持つ概念は徐々に星に宿り、自在に震えるような力ではなくなってきている。この世が神や龍のそれではなく、人の世になりつつある証拠だろう。
それによって、千夜の魔女に直接相対した存在は本当に少なくなりつつあるのだ。
それでも、知っておかねばらない。千夜の魔女という怪物の正体について。
指先をくるりと回すと、炎の狐が二つ生まれる。それを飛ばすと、空の果てを目指して飛び去って行った。
「とはいえ。まずは身体を休めるところからじゃのう。まったくもって、千夜の魔女の力というのは度し難い。神性をこうも容易く傷つけるとは」
立ち上がった炎の女神が身体を炎に変えると、虚空に消える。そうして、その場には光を吸い込む結晶の茨と、灰の匂いだけが残った。
***
………草木の冠が大地より現れる。編み込まれた蔓草は繭のように丸まって、そうして開く。
靴音が響いて、呆れたような息が漏れた。
「どちらも、随分と派手にやったものですね」
「君がそれを言うのかね。遠くで神代の如き戦いが起きていたように感じたが」
「相手が相手だったので。でも、シルラーズさんの周りは綺麗なままというのはまあ、力量差を感じますね………」
素馨を任せてよかったと、ローブを揺らすその人は微笑んだ。
そして帽子を取って胸元に当てると、静かに手を出しだす。
「立って。君はもうどこへでも行ける。その意思を、その足を持っている」
私はその手を取って、もう片方の手で強く、己の杖を握りしめた。
胸が、高鳴る。これはなんなのだろう。今の私は、守って貰って、助けて貰って、そして私を心配してくれていた人たちを倒して。その果てに手を差し伸べられている。
八十も樹雨も、この国も。孤散様だって、私の事を見ていてくれていた。
―――私は神凪の国にとって異物だけれど。妖人としての性質を半分しか持たず、妖力もない存在だけど。それでも、この国そのものが、嫌いなわけではない。なかったのだと、理解した。
だけど。その思いと共に、私はもう一つだけ、私自身に宿った想いを自覚した。
「どこへ行きたい?俺は、君の師匠だ、どこへだって連れていこう。君が、望む限り」
先生の瞳を見つめる。翠に輝く、美しい瞳を。
「私は」
この胸の高鳴りは、期待。私は、見てみたいのだ。
両親が旅立ったこの国の外の世界を。それは両親が何を使命として、なにを果たそうとしていたのかを知る事でもあり、それとは別に―――外の世界がどれほどに多様で、美しいのか、恐ろしく、痛いのか。それを、その全てを私はこの眼で見たいのだ。
魔術もそう、魔法もそう。そして妖人以外の人々もそうだ。私はまだ、この世界の事をほとんど知らない。狭くて優しい、鳥籠の中では満足できない。
「先生の傍に。未来に、行きたい」
淡く、花開くように笑う先生が、喜んでと答えた。パチンと脳裏に音が響いて、ああ………と自覚した。
両親が私に授けた祝福が、今この時に解けたのだ。ただ私のためを思った祈りが、その役目を果たしたのだ。
ずっと、ずっと長く私を抱きしめてくれていた暖かい想いが遠ざかる。私を苦しめて、だけどずっと見守ってくれていた最期の温もりが世界の中に消えていく。
………もう、大丈夫だよ。
その暖かさが無くても、私はもう歩いていける。惑っても、迷っても。それでも、立ち止まることはもうないから。
手をひかれたのだ。背を、貴方達に押されたのだ。だからもう大丈夫。
その祝福と祈りにありがとうという想いを返します。私は、確かに―――貴方達に愛されて、守られていた。
己の足で立ち上がる。己の眼をきちんと開く。進むのだ、これから続く未来という世界へ。
―――古き神々の土地で、魔獣の血を引く国で。幼い魔法使いが一人、確かに生まれた。