炎の女神と千の夜
その身に纏うは炎の鎧。
いや、所々に雅な裾を持ち、袖をくるりと回す様は戦女神のそれだろうか。
そしてなによりも―――炎の中から現れた孤散様は、その姿を大人のそれへと変えていたのだ。
「怖気を感じるほどの美しさですね」
「お主に言われても困るのぉ。同じようなモノどころか、お主の方が原種に近いじゃろうに」
魔女がそうであるように、俺がそうであるように。孤散様も千夜の魔女に連なる存在だ。人や世界の外にあるどうしようもない美しさ。
彼女たちが身に宿す美貌は、そこから来るのだろう。そして孤散様がいう通り、俺もそう言った存在である。
「ふぅむ。対して驚いてはいないようじゃが、さては察しておったな?」
少しだけ低音へと変わった声でそう問いかけたので、俺は小さく頷いて答える。
「ええ。本来の姿ではないことは、最初の時点で分かっていました。内包された真の美しさは、きっと普段の姿それでは無いと」
「妾の擬態は自分で言うのもなんじゃが、悪いものでは無いと思っておったんじゃがな」
「見破れる人は少ないと思いますよ。妖術は魔術や魔法とは体系が異なりますし、判別自体が難しいですから」
それでも感じ取ることは不可能ではない………中にあるものがあまりにも強力過ぎて、隠しきる事が出来ていないのだ。
この時代にまで残る本物の神性。それも魔獣の血すらその身体に宿す存在などこの世でも最上位に近い力を持つものだ。
如何に秘術による隠れ蓑を用意しようと、いや或いは。術による隠蔽であるからこそ、俺の認識に収まってしまう。
「なあマツリ、お主。改めて思ったが」
長い、とても長い刀身を肩に乗せた孤散様が俺を視線を見て、呆れたように言う。
「どこまで千夜の魔女に近づいておるんじゃ?」
「さあ。俺は、俺自身は神話に語られる千夜の魔女を知りませんから。近いのか遠いのかすら、分かりかねます」
「のらりくらりと―――まあ良いが、さてさて。お主はいつまでそうして言葉を躱し続けられるんじゃろう、な!」
太刀を大上段に構えた孤散様が、一歩踏み込んだ。
俺は杖をまわし、煙霧を振りまく。そのまま宙をふわりと漂った。
膨大な熱量を閉じ込めた刀身が燃え盛り、熱波によって暴風が吹き荒れる。ひと薙ぎされた大太刀はその刀身を無数の火の塊に変え、俺を焼き尽くそうと迫った。
左手を口元に近づけると、息を吐く。振り撒いた煙霧がそれに従ってその火の塊の数々を包み込んだ。
内部に幾つもの幻影の樹々や葉を生み出し続けている煙霧は炎を一瞬で鎮火し、更に姿を変える。
煙霧は樹木へと変じ、蔓草で編まれた鎖へと。それは地を這い、空を覆って孤散様を飲み込んだ。
「百里を瞬き一つで焼く炎を良くもまあ、簡単に消しおるのう!!」
「古の魔獣との争いは、こんなものでは無かったのでは?」
「はは、知らぬ!妾も直接あの古戦に参加しては居らぬからな―――妾に残るのは、魔獣の血に刻まれた記憶のみじゃ!」
軽い音がする。手が叩かれたのだろう。
匂いをのする方に視線を向ければ、一瞬の内に孤散様が空へと転移していた。俺よりも高い位置にて留まる彼女を、静かに見上げる。
「変転」
孤散様が纏う焔がさらに燃え上がる。長い真っ直ぐの髪が、その頭に宿る獣角が、腕が、足が―――獣のようなそれへと変わっていく。
「我らは神と獣の血をひく三姉妹。妾は獣の長姉なり………炎の夜に生まれた、人の在り方を持つ獣なり」
即ち。
「炎鎧纏い、陽の眼を宿す。巨なる尾を持ち、妖術を自在に操る。神凪の国の三大妖が一人、妖焔金眼散華の狐なり」
彼女が手を振って………そして。炎の星が墜ちる。
「この地に留まれ、マツリ。お主が外に居ても、そして素馨を連れ出しても、幸福になどなれぬ。獣ですらなく、夜そのものともいえるお主には、昼を望む世界に居場所はない」
手を伸ばす。そのまま、握りしめる。煙霧が星を包み、飲み込んだ。
「確かに人の世は夜を恐れる。けれど、瞳を閉じれば夜は常に傍にある。切っても切れない存在である以上、夜に住まうモノも手を取り合うことは出来る筈です」
「只人ならばそうじゃろう。夜に、闇に住まう存在とて昼の光に姿をさらすことは出来る。しかし千の夜を纏う魔女となれば、話は変わる」
孤散様が炎の扇を生み出し、一つ煽ぐ。景色が歪んで、真紅の翅を持つ炎の蝶が空を覆いつくした。
魔力を込めて魔法を行使して、ふわりと広がった煙霧に包まれた炎の蝶たち。瞬時に一匹残らず、その炎の蝶がアザミの綿毛へと変わる。更にくるりと杖をまわして、振るう。
魔法によってアザミが加護を持つ雷神である、北欧の神トールの力を宿した綿毛が、幾つも束ねられた雷の槍になり、孤散様を狙う。
しかし彼女は獣の様相を示す左手に宿る鋭い爪を以て、神の力の顕現である雷を切り払った。
「人の世は千の夜すら超える。いつか、この大地が生み出した呪いも祓われ、ただの夜へと戻る日も来る。俺はその日を信じます」
「性善説が過ぎるのう、マツリ。甘い、あまりにも人間という存在に対し、甘すぎる」
両手を合わせた孤散様が大きく息を吸い込み、勢いよく吐き出した。
それは天をすら焦がす大火焔。燃え盛る様に美しさと恐れを抱くほどの炎であった。
「人間はかつて魔に抗った勇士じゃ。けれどその本質が光り輝くものであるというのは偽りじゃ。恐れるからこそ、人は魔を亡ぼそうと手を取り合った。魔が居なくなれば、人は人同士で争った。魔獣ではなくとも、人間の底に在るのは獣性じゃ」
「本来生物とはそういうモノでしょう。そして、その中であっても、それでもと光を掲げるからこそ人間は歩みを続けられる。人であれかし―――そう願い、祈り、先へと進む。だからこそ世界は拓かれ、星は育まれ、命は巡った。かつて千夜の魔女と争った時代に比べ、随分とこの世界は広がったはずです」
ふわりと地面に降り立つと、杖で地を叩く。数多の茨が育まれ、大火焔を防いだ。
微かに痛みが奔った左手に視線を向ければ、三脚巴の紋様がその大きさを増しているのが見えた。当然か、これだけの規模の魔法を行使し続ければ、千夜さんとしての肉体は励起してしまう。
拡大する三脚巴は茨の棘のように荒々しい姿となり、今までで最も多く、俺の身体を侵食していった。
「人の灯が掲げられたその陰で、世界が失ったものも多い筈じゃ。生まれた不平や不幸も多い筈じゃ」
「そうかもしれませんね。けれど、人はそれを知って、それを正せる。闇が膨れ上がり続けることは無い。夜が覆い続けることもない。人が、その背を押すあちらさんが、龍が、その眼を決して閉じない限りは。その歩みを止めない限りは」
今はまだ、この身に宿るものが呪いであっても。いつか、遥か遠く、道を歩み続けた果てに、呪いという言葉から解き放たれることを。
己の心臓に手を当てる。喪おうが再び作られるこの身体は、確かにこの世界にあってすら異質なものだろう。けれど、けれどだ。そんなことは、些細な問題なのだ。
「孤散様。言葉によって俺を縛り付けることは出来ませんよ。だって」
杖を振り上げ、コン―――と。地面をたたく。
体を覆う三脚巴が淡く翠に発光する。帽子のつばをすこし下に降ろし、紋様と同じように翠の光を放つ瞳を孤散様に向けた。
「貴女の言葉は優しさと憐れみに包まれたものだ。けれどそれは、真に俺と素馨の事を見ていない」
「………ほう」
煙霧が、いや。深い夜色の霧が世界を覆う。
「素馨はいい魔法使いになります。その足で世界を歩き、その瞳で人々を眺め、その耳で多くの声を聴く、その果てに」
「いいや、マツリ。この地であっても、それはできる筈じゃ。外界に出て傷つきながら、偏見を身に浴びながら行う意味も無かろう。そも、己だけの異界を持ち、そこに根付き、人や魔法使いに力を貸すというのは妖精の在り方と同じはずじゃ」
「ふふ」
優しく微笑む。妖しく、哂う。
「私たちは、籠の鳥でも観葉植物でもありません」
もう一度、杖で地面をたたいた。
「妖精は確かに彼らの国を持つ。けれど、彼らは己で選び人の世に足を踏み入れ、人に寄り添い、世界を見聞する」
霧が、一段とその暗さを増した。
「彼らは拓かれた世界に在ろうとする。国に鎖をかけ、天地を束縛し、時を留めることとは大きく異なる」
確かに、あちらさんの故郷ともいえる妖精の国もまた、時の流れは人の世とは違うし、そこを治める長もいる。それでも、彼らは人を愛し、人の世に手を伸ばす。
そこに住まう、彼ら自身の意思によって。
一存によって外界との関わりを遮断される神凪の国とは、話が違うのだ。
「はっきりと、言いましょうか。神と獣の血を引く、美しき炎神の妖狐よ」
ぽつり、ぽつりと。炎の灯りと、熱が遠ざかっていく。
「素馨を留めるには、育てるには―――あまりにも、この国は狭すぎる」
瞬きするほどの間に一陣の風が流れ、大地に結晶の花が満ちる。
それは蒼の、或いは黒の結晶で形作られた鋭い棘を持つ茨の華。
大気は霧で覆いつくされ、見上げた空には、ただただ昏い夜が広がっていた。
「………終わりなき千夜、か。伝承、いや。記憶では知っておったが、この眼で見るのは初めてじゃの、全ての光を奪い、幻想を食い尽くし、大地を穢し、空を閉ざした古き魔の苗床。これが、そうか」
焔も炎も、纏う鎧も大太刀も。その輝きを失っていく。
「現と幻想、その境。最早概念も表現する言葉すら喪われたそれらの法則を体現したという千夜の魔女は、その力を以て魔女や旧き龍すら殺し、この世界から幾つもの概念や法則が消え去った―――成程。鱗片ですらこれならば、納得も行く」
「私たちは自らの力で飛び立ち、空を舞う。例え、貴女を弑することになっても」
「そうか。ふむ、そうか。ふ、ふははは、素馨のやつ、厄介な人間を師に迎えたものじゃのう。ならば、なあマツリ」
―――素馨を、任せた。人の運命に寄り添う、人を心を持つ千の夜の魔女よ。
夜が、呑み込む。一切の光が消え失せて、そして。
………そうして、夜が明けた。