妖人という存在
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「なんだか久しぶりな気がしますね、シルラーズさん」
「実際にある程度の時間はたっているだろう。ふむ、君のローブの陰に隠れているのがソケイ嬢かな?」
「………こんにちは」
「ああ。こんにちは、だ」
火の着いていない煙草を口に咥えたシルラーズさんが、素馨に視線を合わせてそう挨拶を返した。
素馨はちょっと人見知りを発動させているらしい。俺のローブを掴んだまま、少しだけ出した顔でシルラーズさんを眺めていた。頭の上の獣角がひょこりと揺れて、シルラーズさんの音を聞いているのが分かる。
けれど、まあ。まだシルラーズさんの魔力を感知することは出来ないだろうね。凄腕の魔術師である彼女は、その身にかけている防衛魔術の量も質も並の魔術師では比に成らない程のものだから。
この世界において千夜の影と相対できる存在は、そうはいない。シルラーズさんはそんな存在の一人なのである。
「大丈夫だよ、素馨。シルラーズさんは俺の恩人で、ちょっとだけ変人ではあるけれど、善い人だから」
「全然音がしないからちょっと変………」
「魔力探知を聴覚で行うタイプか。珍しいが、悪くない。才能あふれる、というやつかな」
「ええ。素馨は良い魔法使いになりますよ」
眼鏡の奥からシルラーズさんが俺の瞳をじっと見つめる。煙草を咥えた口が何事かを紡ごうとして、代わりに溜息が漏れ出た。
「それで?」
「暫くの間、素馨を預かっててほしいんです。俺はこの後、孤散様に報告とかいろいろを話さないといけないので」
「対価は」
にこりと微笑みつつ、ちょっとだけ爪先立ちになる。密かな話をしたいという事を察したシルラーズさんが姿勢を下げた。俺はそのままシルラーズさんの耳元へとささやきかける。
「素馨の杖を調べて良いですよ。分解は駄目ですけれど、参考にする程度なら」
「奇妙な杖だとは思っていたが、何か秘密が?」
「十五の鈴が付けられた神凪の杖―――俺が作りました。素材の大部分はこの土地から得たものですが、杖の核。基礎の奥に隠れた素材があります。それは俺の………いや。千夜の魔女の心臓から産み落とされた宝玉です」
「………千夜の魔女の生み出した武具の数々、月の写し見か」
古の大戦時に魔のモノが振るい、多くの厄災を撒き散らした呪われた武具。その中でも千夜の魔女が手ずから生み出したとされる、この世でも再現することが難しい伝承上の産物。それを、月の写し見と呼ぶ。
素馨の杖は実はその一つだったりする。現代では生み出すことのできない、神代の武具だけれど………なぜ俺が生み出せたか、なんて理由をいまさら説明する必要はないだろう。
半分以上、或いはそれを超える程度に。俺は人間ではなくなっているのだから。
「そんなとんでもないものを弟子に授けたのか?」
「素馨なら使いこなせると信じていますから。存外、手足のように使うかもしれませんよ?」
「それは未来視か?」
「………どうでしょうね」
ちなみに、月の写し見と呼ばれる武具に相当する人類側に武具は勇者の持つ聖剣や賢者の錫杖のような所謂神器だ。俺の持つ杖は、あちらさんが力を込めて作り上げられたこの世ならざる杖であり、格としてはそれらと同等である。
プーカは本当に、俺に凄いものをくれたのだ。俺が千夜の魔女に成り代わってしまう危険性もあっただろうに―――信じてくれたんだろう。
だからこそ、俺も弟子を信じるんだよ。
「いいだろう、対価は受け取った。好きにしてくるがいい」
「ありがとうございます、シルラーズさん」
「―――君自身の幸福を追った結果なのかは私には推測しかねるが、自我の通りに動くことは悪い事ではない。魔法使いとはいえ、な」
「はい」
素馨の方を振り返ると、頭を優しく撫でる。
そのまま背中を押した。
「少しだけ、シルラーズさんと一緒に待っていてね。すぐに戻るから」
「………先生?」
「やることがあるんだ。共に道を歩くために、ね」
不安げな素馨に瞳を強く見つめる。
「大丈夫。信じて」
黄金の瞳が瞬きをして、不安げな光の揺らぎは消え失せた。
「うん。ご飯作って、待ってる」
良い子だ、と頭を撫でて。素馨の獣角が揺れた。
俺は素馨とつないでいた手を放し、代わりに魔法使い帽子をそっと抑えて目深に被る。少し先に、八十さんと樹雨さんが待っているのが見えた。
―――向かう先は櫻渦城。ここで俺は、どうしてもやらないといけないことがあるのだ。
杖を手に、静かにそちらに歩き出した。
***
「ご苦労であったなぁ。まあ、食べてくれ。そして呑んでおくれ。細やかなものでしかないが、感謝の印というやつじゃ」
鼻先に香るお味噌汁の匂い。秋刀魚に炊き立てのお米。
しっとりと丁寧にまかれた出汁巻き卵に茶碗蒸し、鶏肉は大根おろしと共にしぐれ煮になっていた。四藤さんはその奥から配膳を続けており、まだまだこの宴は続くのだろう。
箸を進めつつ、孤散様に微笑む。
「とんでもないです、とても美味しいですし………十分過ぎますよ。逆に貰いすぎです」
「そうかのぅ。素馨を救ってくれたという事は、妾にとってそれほど重要な事なんじゃが」
そんなことを呟きながら、孤散様が片手に持った緋色の盃を傾けた。
開け放たれた障子の向こうには雲を引き連れた月が浮かんでおり、涼しい風が緩やかに部屋の蝋燭を揺らす。口元から離した盃に波紋が現れ、静かに消えていく。
音もなく近づいた四藤さんが徳利を差し出してきたので、俺も酒器を向けて中の液体をゆっくりと喉に流し込む。
神凪の国の酒の味はやはり、殆どが日本酒と同じである。元々の俺の魂の在処故なのか、神凪酒は実に舌に馴染む。まあ、こうなる前の俺はしっかりと酒を呑んだことは無かったのだが。
舐める程度であればまあ、あったような気がするけれど。
「さて。お互い本題に入りましょうか」
神凪酒の最後の一滴を味わうと、箸と酒器を膳の上にそっと置く。
視線を一瞬だけこちらに合わせた孤散様が、再び月の方を眺めた。
「語らうような本題など、はて。あったかのぅ」
「あはは。あるでしょう―――孤散様、これらの宴の品々は、黄泉の国の囚われの果実には成りえませんよ。特に俺に対してはね」
「良い品を集めたんじゃが、口には合わんかったか」
「まさか。とても美味しかったです」
………いつから、これら宴の食材や酒を集めていたのか。俺が素馨を救うことは、孤散様の中では確定だったのだろう。
その後に備えて彼女は宴を開いた。俺一人を招いた、文字通り夢のような宴を。
「孤散様。敢えて、素馨についての情報を控えていましたね」
「ふむ。そうじゃな。勝手に知ると思っての事じゃが」
「知られた方が、俺が彼女に同情するから………でしょう?」
薄く微笑みながら小首を傾げれば、ようやく孤散様は俺の方を向いた。
「お主は、妾が何もせずとも素馨を助けたじゃろうがな。それは認めよう」
彼女もまた、盃を膳の上へと戻す。そのまま、四藤さんが全てを片付けて、襖の奥へと消えていった。
肘あてに身体を預けた孤散様は、素馨に似た黄金の瞳を薄く細めると、大きく溜息を吐いた。
「神凪の国は鎖国しておる。我ら妖人は特例の数名を除き、外の世界には出せぬのじゃ」
「素馨も含め、ですか」
「当然じゃ。例外はあってはならん。理由は、分かるじゃろう?」
「ええ。妖人という種が誕生した秘密に由来するものですね」
帽子を床に置くと、己の緑の眼を孤散様に合わせた。
「―――妖人は、神と魔獣の混血ですから」