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瞳から逃れて


「ッ!!月、夜?」

「奴らの潜む樹の傍だ。まだ終わっていないぞ、掴まれ」

「うん………!」


月夜の淡い光にすら目が眩むのは、今までがあまりにも昏い闇の淵に居たためか。

震える手に力を込めて水蓮の鬣を掴むと、背後を振り返る。


「木の洞穴が!」


声をあげたのは、大樹に空いた巨大な洞穴から、淡い光を食らいつくす闇が膨れ上がったからだ。その闇の中には次々と赤い獣の瞳が灯り、その数を増やしていった。

怖い、気持ちが悪い。そう思うのは、彼らが人間の最も古い根源の記憶に纏わりつく怪異だからだろう。

深く黒い森の奥から人間をじっと見つめる魔性の眼。火を灯さなければ簡単に喰われてしまう恐怖の対象。それが怒り狂って私たちを追いかけている。契約と願いを踏みにじり、自らの領域を抜け出した存在を喰らおうと闇の中でなお暗いその体躯をうねらせた。


「ふん。あの洞穴こそが獣の拠り所という訳だ。私たちはあそこの中から抜け出した」

「ねえ………逃げられる?」

「やるだけやる」


水蓮の白くたなびく美しい体毛に、血が混じる。蒼い瞳の顔からは、氷の混じる霧のような吐息が混じっていた。

―――本来、一度迷い込んだら抜け出すことのできない領域から私を連れて、そして私を守って抜け出した。

そのためにどれほどの力を使ったのか。あの洞穴の中の闇とこの現実の月の光、その間には途方もない距離と溜息が出るほど分厚い壁があったはずなのだ。それを、この妖精は突き破って見せた。約束があったのか、この人自身の思いなのか。それは分からないけれど。

………私だって。水流を纏う彼女に、そしてもう一人の彼女に。ゆっくりと、一つずつでも想いを返したいのだ。


「どうすればいい!?」


大声で叫ぶ。その瞬間、耳鳴りが響いて。

私の頬に柔らかな手が触れられた気がした。そのまま、霧の向こうから。囁くように、幻の声を聴く。


”ただ、声上げればいい。歌を編めばいい。音を紡げばいい”


私の魔法は、ただそれだけのモノ。幾つもの音を生み出し、そこに古い力を乗せる。かつて詩歌の中に人々が神を見たように。

魔法の技術も知識もないけれど。それでも、私はもう―――魔法使いなのだ。


讃えよ(Clio),惑えよ(Thelxinoe),我が歌を(Musica)!!」


杖はなく。だけど私には五体がある。喉を震わせ、一瞬だけ水蓮の鬣から手を放して、大きく手を打った。

包み込むような音が響いて、私の音階に乗せたとても簡素な歌が周囲へと伝わる。

膨れ上がった闇が再び幾つもの触手を伸ばして私たちへと襲い掛かる。しかし、真っ先に私たちに到達するであろう触手は、その軌道を変えて他の触手たちへと纏わりついた。


「魅了の歌の魔法。海の魔物セイレーンの歌か………人からその歌を聞くことになろうとはな」

「よく分からないけど、少しは、隙が作れた、かな?」


何度も息を吐く。調整も殆どできないまま、感情任せに魔力を使ってしまったために体力が非常に消費されているのを自覚した。

再び鬣にしがみついて、水蓮の首に顔を埋める。笑ったような吐息が聞こえて、水蓮が僅かに頷いた。


「休息には十分だ」


再び、彼女の速度が上がる。

多くの闇を振り切って、一直線に空を駆けて、どこかへと向かう。

いいや。どこか、なんて。どこに向かうかなんて、私は分かっているのに。


「あ」


夜すら飲み込む闇の影を抜けて、そのまま空を見上げる。雲が晴れて、月が覗く空には満天の星空が広がっていた。

水蓮の歩調が澱む。纏う水流が弱まり、それを待ち望んでいたとばかりに背後の赤い瞳を幾つも輝かせる泥のような闇が、私たちを包み込み、飲み込もうとする。

―――けれど。それは、叶わない。何故なら。


「お帰り、水蓮。そして、素馨」


年季の入った魔法使いの黒帽子。そこから伸びる、ウェーブのかかった癖のある白い髪が風で揺れる。桜色の唇が薄らと笑みの形を作って、翠の瞳が優しく和らぐ。

裸足を投げ出して家の屋根に座る彼女が私たちに向けて手を伸ばした。

まず、彼女の手が水蓮の鼻先に触れる。その瞬間、白馬の姿であった水蓮は、彼女の姿によく似た、大人の女性の姿へと変わった。

私は水蓮の背中から投げ出されて。だけど、恐怖を感じない浮遊感の後に彼女の胸元に抱きしめられた。


「うん。本当に、良く戻ってきたね」


顔が見えない。唇だけがそう動くのが見えて、耳がその音を捉えた。

―――気が付けば泥のような闇、獣の瞳はその全てが動きを止めていた。

後ろを見てはいけない。私の本能が、警鐘を鳴らす。彼女が、マツリがその視線を、私の背後へと静かに向けた。

何を見てはいけないと思ったのか。獣の瞳なのか、それともその瞳をすら怯えさせる、霧の主の視線なのか。分からない。だから、私は瞳を閉じる。


「………邪魔だよ。獣の瞳風情が、()の前に現れるな」


言葉にするならそれだけ。けれど、それは膨大な魔力を纏った威圧となり、獣の瞳たちを押しつぶす。私は、それを見ることが出来ない。だけど、この耳がそれを全て捉えていた。

声にすらならない悲鳴を上げて、獣がのたうち回る音がする。泥のような闇の手が瞳に映る全てを押しつぶそうとして暴れるのが分かる。

そして、その全てが実現せず、星の誕生からほど近い時代に生まれたであろう古い怪異が、何も出来ずに消し潰されているのも、私の耳は捉えた。


「君たちが道理を押し通すには、少々力が足りなかったかな。悲しい事だ」


道理を捻じ曲げた彼女が、悲しそうに微笑む。生命に近い怪異であるならば………彼女はきっと、殺したくはなかったのだろう。

それでも彼女が他者の命を散らすことが出来たのは、私と水蓮と―――彼女の中にある何かが、獣の瞳の視線を閉ざしたかったからなのだろうと思う。

いや。そんなことはどうでもいいのだ。

大事なのは………この人が、私の背を優しく撫でてくれていること。私の髪に額を当てて、吐息を零してくれること。それだけで、いいのだ。

だって。この人から与えられる愛は、本当だってわかるから。

彼女の胸元に頭を押し付けて。それに気が付いた彼女が、私の頭を優しく撫でてくれる。


「頑張ったね、素馨」

「………ごめん、なさい」

「良いんだよ。君の孤独をだれも責めたりはしない。君が君を許せば、それでいいんだ」

「………うん」


涙が零れて、胸元に染みを作る。

声を震わせたまま、静かに私はマツリにしがみついた。それを見た水蓮が、溜息を吐きつつ乱れた髪を直して、マツリに問いかけた。


「一件落着、か?」

「どうだろうね。でも、いち段落ではあると思うよ」


夜の月明かりの中で、翠の眼を細めながらマツリが微笑む。

その手はまだ私の頭を撫でていて。暖かさにゆっくりと、私は意識を手放した。



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― 新着の感想 ―
[一言] 千夜さんが強く出ると、一人称変わるのか
[一言] マツリさんが神すぎる
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