杖は月明かりの下で
***
「いい月夜だね。風も良い………さあ素馨、準備はいいかい?」
「………うん、大丈夫。魔力の流し方も、感じ方も分かってきた」
気合と緊張が入り混じる表情で素馨が月を見上げる。夜の空に浮かぶ雲が月光を反射して、闇を彩っていた。
杖を取り出すと、帽子を目深に被ったまま素馨の後ろに立つ。そして彼女が地面に魔法陣を描き出した。
今回、陣を描くのに使用するのは希少鉱石や薬草類を溶かし込んだ液体に、素馨の血を注いだものだ。注いだ、といってもそんな大量には血を取っていないけれど、ね。
そもそも血を補うための他の素材たちだからね。本来ならば、血のみを用いた魔法陣の方が効力は上がる。だけど、そこまで行くと逆に魔力の調整に手間がかかり、それこそ杖が必要になるため今回の事例では役には立たない。
「ん、出来た」
ここから先は、俺が口を出すことは無い。だって、もう素馨独りの戦いだからね。
俺は師匠ではない以上は、その背を押すことは出来ても手を重ねることは不可能なのだ。だけどまあ、見守るくらいはいいだろうか。
丁寧に地面に描かれた魔法陣に一切の乱れはなく、とても綺麗に線が組まれている。これならば魔力の流れも整うだろう。
「よい、しょ。ここに杖の材料を乗せて」
基軸となる樫の木を始めとした、儀式を経て杖となる素材の数々が置かれ、最後に描かれた魔法陣の中心に素馨が立って、手を置いた。
静やかに素馨の腕を中心にして魔力が魔法陣に注がれる。魔力はイメージによっていろいろとその性質を変えることが出来るけれど、少なくともこうして魔法陣に魔力を注ぐ際に関しては、液体という形が一番適している。
その方が想像しやすいというのが一つ。陣に注ぎ込むという型式を取る以上、形を変えやすい、浸透する液体が適しているというのが一つ。
兎も角はそういう理由によって、素馨が液体のような魔力を魔法陣に満たしていった。
力ある言葉や図形がその魔力を吸い込んで、魔法陣そのものに力が宿る。素馨を中心にしてそれぞれ置かれた杖の素材たちに、その力が注がれた。
―――樫の木に、黒曜石に。イラクサに、彼岸花に。
素馨の清涼な魔力が、それら杖の素材に浸透し、包み込む。そして、魔法陣の中で素材たちが浮き上がった。
『根幹に大地の樹を 骨肉たる石を 命の流れたる草花を』
素馨が呪文を唱えて、手を空へ掲げる。月の光の中で、徐々に杖が形を整えていた。
『我が手に力を 我が手に叡智を 我が手に祈りを 故にこそ、我が手に杖を』
更に呪文が重なって、杖が形を成していく。
樫の木の頂点に黒曜石が組み込まれ、イラクサと彼岸花が巻きついて装飾する。二つの草花は鎖のように。黒曜石は、光を呑むように―――そうして、ついに素馨の手の中に、一つの杖が現れた。
「出来た、の………?」
「うん。それが君が作った、君の杖だ。魔力を通してみるといい、とても使いやすい筈だよ」
肩で息をする素馨の背を支えつつ、そう声をかける。
魔力をほとんど扱ったことがないのに、精密な魔力制御をしたのだ、当然代償として体力が大きく削られる。
それでも成果は確かに存在しているのだ。杖は、魔力の扱いを容易にする………例え、まだ未熟なものであっても、ある方が遥かに魔法使いの身を助ける。
「うん………うん、やって、みる………!」
自らの力で作り上げた呪物に目を輝かせる素馨。こういうところは、年相応の顔を見せてくれる。
そうとも、素馨はまだ若い。こういう表情をしている方が似合うのだ。
頭を撫でつつ、杖を媒介にして素馨が魔力を操るところをしっかりと確認する。眼を閉じて、獣角を揺らした素馨が杖を強く、握った。
イラクサと彼岸花の装飾が蠢き、黒曜石に光が宿る。素馨を中心にして、魔力が振動した。
まだ魔法そのものを扱うことが出来ない素馨だけれど、魔力探知と魔法陣を用いた儀式、杖制作を乗り越えたことで魔力そのものの理解と干渉が可能になっている。
だから、今やったように………大気の魔力に干渉して大きく音を立てさせることも出来るわけだ。
「は、はぁ………出来た、よ。マツリ!」
「うん。偉いね、素馨。自分の魔力と大気の魔力、もう既に両方を扱えるのであれば、魔法を使う下地は完成したも同然だよ」
実際、魔力操作が行えるのであれば後は術そのものを覚えればいいだけだ。それは例えば今回、素馨がやったような魔法陣であったり、呪文であったり、呪物の扱いであったりするわけだけれど。
「さて」
コツン、と。俺は杖の先端で己の影を叩く。その音に反応して月夜に刻まれた影が一瞬だけ揺れて、そして凪いだ。素馨が不思議そうな顔をしているけれど、気にしない振りだ。
影が揺らめかない事を確かめると、俺は目深に被っていた帽子を上げて、翠の瞳で素馨の眼をしっかりと見つめた。
「………な、に?」
「ん。魔法を教えてあげようと思ってね」
「それは、嬉しいけど。急すぎない?」
「そんなことは無いよ。魔法が使えるようになったのであれば、早いうちに学んでいたほうが良い。色々と、よってくることも多いからね」
人も魔も、未来ある存在には何かと集まりやすいのだ。まあそれはさておき。
薄く微笑むと、素馨の耳元に顔を近づける。ゆっくりと唇を動かして、彼女に囁いた。
「素馨。君にはまず、二つの魔法を授けよう。一つは進むべき道を進むための魔法。そして、もう一つ………」
『運命は、転輪する』
そう、呪文を授けた。
素馨は首をかしげて、
「なんの呪文?」
と、問いかけるけれど。俺はその質問を笑みの中で誤魔化す。
「使う時に分かる筈さ。さあ、どちらも呪文で形を成す魔法だよ、きちんと覚えたかな?」
「平気。私、耳良いから」
「だろうねぇ。まあ、いいさ。覚えられたなら何でも、ね」
これで、彼女は魔法使いとなった。杖を手に入れ、魔力を操り、魔法を使役する存在へと。
まだこの子に自覚はないだろうけれどね。俺は、素馨の獣角の根元を撫でながら優しく語りかけた。
「魔法を手に入れた君は自由だ。どこへだって行ける。旅立ち、魔法の腕を鍛え、その力を自分のために使う事も。どこかに定住し、その地に住まう魔法使いとして人々に手を貸すのもいいだろう。そうでなくても、好きに生きればいい。俺は君の師匠ではないから君を縛ることなんてしないからね」
………君はどうしたい?
これから先、このまま進めば一人で立つことになるであろう少女に対して、そう問いかけた。
たった一人で生きることは難しい。簡単に、楽に思えるけれど………孤独は、人を殺すのだ。それでも尚、孤独を選ぶのなら俺はそれを尊重する。人と触れ合うというならば、俺はその背を押そう。
―――そうではない選択肢を取るというならば。その時は改めて、俺は君に問いかけるのだ。
素馨は、目を伏せる。黄金の瞳に黒曜石の影を落として、彼女が小さく答えた。
「分からないわ。そんなの、分かる訳がない」
杖を握る腕が震えていた。
「そっか」
月を見上げる。叢雲が覆う夜の空を。
「いつか、分かると良いね」
今、この現状において。俺が導けるのはここまでだ。後は、彼女次第。
………ただ待つだけである。
月光の下で、素馨の影が淡く揺れていた。