散策と大樹
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「はぁ~、気持ちよかったぁ」
「………そう、ね」
沐浴を終えた後、手足を思いっきり伸ばしてから服を着る。清涼な水の中に長い間使っていたためか普段よりも体の調子がいい。
生命の気が満ちる泉だ、魔法使いであり人外である俺や妖人の血を引く素馨にとっては妙薬となる。
素馨も少し耳を気分よさげに動かしていて、楽しめたようである。
さて。ではそろそろお昼が近づきましたが、どうしようかな。お昼ご飯にしてもいいんだけれど。なんか最近食べてばかりだからね、少しは散策でもしましょうか。
「ね、素馨。この後少し森を歩かない?」
「………なんで」
「沐浴の後に森林浴っていうのもいいものだよ。運動するのも気持ちいいし」
草木に手を伸ばし、蔦からタオルを作り出す。
そしてそのまま手に取って、素馨の髪をわしわしと拭いた。草木から生み出したタオルだけれど吸水性は抜群である。ちなみに魔法の識別としては錬金術の一種である。
「ちょっと、雑………!」
「あはは、ごめんごめん。あんまり上手く無いんだ、俺はどちらかというとやられる側だからね」
ミーアちゃんとかにね。それでもなるべく優しく、けれどしっかりと水滴を拭きとると、タオルを宙に放り投げて指先をくるりと回した。
それによって水を吸ったタオルは綿毛になって消えていく。
「魔法って、便利なものね」
「そうだね。今の文明なら極めた魔法の方が便利かもしれない。でも本来魔法は大盤振る舞いするものじゃないんだ。今回は特別だよ」
内緒話をするように口元に人差し指を当てた。実際、素馨のためでなければ生活にこれ程多く魔法を使うことは無いだろう。俺自身のためにはまず使わない。
まあそれはさておき。靴を履いて帽子を被ると素馨に向けて手を差し出す。ちょっとだけ迷った彼女は俺の手を最終的にとると、森の方へと足を踏み出した。
一緒に出掛けてくれるらしい。裸の付き合いが仲を深めるにはいいなんて俗説があるけれど、偶には通用するようだ。なんにせよ、一緒に来てくれるのは嬉しいよね。
………手を繋いで、新緑の満ちる深い森の中へ。森の木々の隙間からは青空が覗いていた。
落ちた枝葉を踏んでパチリと音が鳴る。鼻先を通り過ぎる翠の匂いに頬を緩めた。
暫くの間、そうして歩いていると素馨がぽつりと言葉を漏らす。
「神隠しに出会ったら、こうして連れ去られていくのかもね」
「………そうだね。でも分からないよ、手を引かれることなんてなくて、目が覚めたら別の場所にいる、なんてこともあるかもしれない」
「それは、ちょっと悲しい。まだ手を引かれたほうが、迷わされた方がいい」
「へえ。どうして?」
俺は、目が覚めたらこの世界に居た。だから異世界に迷い込むまでの経過を一切記憶していない。
なので俺自身が辿った神隠しを、悲しいと言われたことには単純に興味が湧いたのだ。瞬きを何度かしつつ、素馨の方に視線を向けた。
「唐突に連れ去られたら、覚悟もなにも出来ないから。別れるんだってことも言えないし、それに………迷わされたのか自ら迷い込んだのかも分からないままに、消えてしまうから」
「―――そう」
本当に迷い込んだのか。望んだから迷い出たのか。俺は果たして、どっちだったのだろう。
そっと首を振る。答えは永遠に分からないだろう。それに俺の本来の家族とももう二度と会うことは出来ないと思う。
千夜の魔女の肉体を手に入れていなかったら違う結末もあったのかもしれない。彼女に呪われていなければ、帰る術も見つけられたのかもしれない。
けれど、俺は既に千夜の魔女の躰をもつ魔法使いだ。この世を渡る力があったとしても、本来の俺が住んでいた世界で暮らすことは出来ない。
「茉莉?」
「ん、なに?」
「眩しそうな顔をしてたから。どうしたの」
「なんでもないよ。ただ、通り過ぎてしまった結末に目を晦まされていただけだから」
「………?」
俺が異邦のモノだという事は当然ながら素馨は知らない。素馨は今はまだ、知らなくていい。
いつか君が魔法使いとして独り立ちした時に、そういう存在もいるのだと知ればいい。
「おや」
泉からしばらく歩いていると、森の中で少しだけ開けた場所に出る。
稀に森の中に存在する、他の木々が育たず、ただ一本の樹が空へと背を高く伸ばす場所。
大陸の方であれば大抵こういった場所には名のある精霊やあちらさんが住んでいるものだけれど、妖人の地である神凪の国では流石にそのようなことは無いらしい。水蓮のように強力な力を持つ存在は、あの樹には宿っては居なかった。
けれど。魔の気配が一切存在しない、という訳でも無いようであった。
………そっと目を細める。大きな木の洞の中に、紅い瞳が見えたような気がした。すぐに影の中に波紋が生まれるが、そっと抑え込む。
「帰ろうか、素馨」
「―――え?」
手を引いてその場所から離れようとすると、素馨が嫌がるように力を籠める。
「素馨?」
「もうちょっと、いいでしょ」
「んー、でももうお昼ご飯の時間だよ」
「独りで食べれば」
「いやー、それは寂しいかなぁ」
そんな風にやり取りをしていても、素馨の視線は俺の方を向くことは無い。ただ、樹の方をじっと見つめていた。
何かを見つけたかのように、或いは囚われたかのように。
参ったなぁ、あんまりあの樹には近づいてほしくないんだけれど。
別にこの場に悪しきものどもがいる、という訳ではないのだ。けれども世に悪意を振りまくのは決して悪逆の徒だけではない。結果として悪意になってしまうものもあるからね。
水蓮の事件の際に出会ったあの男は悪意だけで成り立っている存在だけれど、本来はそういう方が稀なのだ。
悪意の塊ともいえるものが振り撒く災厄は確かに悍ましいものだけれど―――それに匹敵する物も、この世には存在する。
「向こう側を見たいならば、魔法を学ぶ必要がある。今のままでは何も見えないよ」
「………」
帽子を目深に降ろして素馨に対し微笑みかける。さて、どうするべきか。
正直に言えば、神凪の国に彼らがいるのは想定外だった。いや、まあ。旧き時より存在している妖人の領域たる神凪の国だ、考えるべきではあったのかもしれないが、それとて実際に遭遇するとは思わなかった。
安全を考えるならば、魔法使いとしては未熟どころか雛鳥にすらなれていない素馨は近づかせるべきではないだろう。
けれど。きっと、彼らは素馨にとって一つのきっかけとなりうる。それを基にして、閉塞しているこの状況から、彼女を開放することが出来るかもしれない。
―――最も古き異形、紅い瞳の怪物たち。
文明の火すら灯っていない、人が弱き頃に人を脅かした森の中から覗く化生ども。人を妖しく誘う魔の瞳。
そっと目を閉じる。彼女の現時点での幸福と、未来を天秤にかける。
迷わずに俺が選ぶのは、素馨が自分らしく生きることのできる未来。それを選ぶのが、導きの師たる魔法使いの役目だろう。ならば、そうするだけだ。
素馨の手を強く握って引っ張る。そしてその瞳の前に割り込んで、唇を揺らす。
「君が何を見たのかは聞かない。どうするべきかも、どうしたいのかも聞かない。ただ、手段は与えよう。魔法を、学ぶなら………俺は力になる。君は、どうする?」
金色の瞳が、俺の翠の瞳を見つめる。覚悟を決めたように、素馨が答えた。
「………教えて」
息を深く吸い込んで、彼女はしっかりと答えた。
「私に魔法を、教えて」
俺はその言葉に淡く微笑むと、腕を取ってその手の甲に口付ける。
「喜んで、小さなお姫様。魔法使いたる俺が、君に魔法を授けよう」
荒療治になるかもしれないと、思いつつも。素馨に幸福な道のりがありますようにと、そう願う。
俺の影に水面が映る。けれどそれは見ない振り。彼女の道のりを、俺は見守ろう。