背に触れる
素馨の背中に、まずは素手で水をかける。
びっくりさせないようにゆっくりと時間をかけて。彼女の髪にも染みこませるように泉の水をかけて、梳いていく。
俺とは違って真っ直ぐな髪だ。するりと手の中をすり抜けていく。
「ん………」
頭の上の素馨の獣耳が小刻みに動く。どうやら気持ちが良いらしい。
こういうところは素直なんだよなぁ。口元を綻ばせつつ、獣耳の後ろ側を撫でる。
獣角ということで実際は角の一種であるとされる素馨の獣の耳だけれど、感触は動物のそれと変わらないように思える。こちらでも音が聞こえているようだからね。
さて、髪を清めると今度は絹の布を取り出した。自分の髪を一本引き抜くと、それを振って形を変える。
現れたのはカモミールだ。更に息を吹きかけてから、そのカモミールを絹の布の中に閉じ込める。
ふわりと林檎のような香りが舞って、幾つもの泡が飛んだ。
「なに、あれ?」
「泡だよ。身体を洗う薬を作ったんだ」
薬というけれど、まあ要するにボディーソープである。
神凪の国には流石に流通していないので、魔法で作り上げました。基本的に自分に対しては使わないけれど、弟子のためならこのくらいはありでしょう、多分。
可愛い素馨は磨けば更に光るのだ、何もしないというのは出来ないよね。
………うーん、お世話する楽しみみたいなものを見つけてしまったかもしれない。ミーアちゃんの気持ちがちょっとわかるかも。
「ふーん。良い匂い………」
「あはは。それなら良かったよ」
カモミールの匂いは大体の人に好まれるけれど、好き嫌いは千差万別なので苦手と思う人もいる。素馨は嫌いじゃないみたいなので一安心。
ちなみに魔法で作ったボディーソープなので、発声した泡が泉の水の中に落ちても汚れるようなことはありません。寧ろ俺の魔力が混ざりこむので綺麗になるんじゃないかな………。
千夜の魔女の肉体から生み出される魔力はあちらさんが生み出す魔力に限りなく近い。つまり自然に満ちるそれらと同一だ。
実は呪いと化した彼女が振り撒いたものとは性質が違うのである。まあそれはさておき、そのような理由から俺の魔力が大地や泉に満ちれば単純にその場所の自然が勢いを増す。
―――とにかくだ。環境にとてもやさしい洗剤なのです、ええ。
こほんと息を整えると、改めて素馨の背中に絹の布を押し付けた。そのまま優しく力を入れて、洗っていく。
素馨の頭上の耳があちらこちらに向きを変えているのが、緊張している様をよく表していて微笑ましい。
………けれど、少しだけ。重い感情を思わせる香りも、漂っていた。
「素馨。背中を洗う事にはどんな意味があるのかな」
「さあ」
「あらまあ、はぐらかさないでよ」
「………意味なんてない。そう、結局意味なんてないの」
泉の湖面に吐き捨ているように少女は言葉を発する。
「意味があったとしても、それは消えてなくなる。だったら無いのと一緒。守られない約束なんかにどんな価値があるの?」
「………」
無意味に言葉を重ねる事。出来もしない契約を交わす事。それには確かに価値はないのだろう。
素馨の言う通りだけれど………それでも、その意味を信じたいのであれば、一欠けらであってもそこに価値は宿る筈だ。
そうは思うんだけれど、ね。俺から、素馨に対してそれを言うことは出来ない。
だってきっと。素馨はその意味を喪ってしまったんだから。欠けた記憶を持つものに、無責任な言葉はかけられない。
誰しも己が発した言葉には責任が宿る。その中でも魔法使いは特に、言の葉に力が宿るのだから。
「そうだね。だったら、いつか。守られる約束を、君が出来ればいいね」
変わらずに素馨の背中を優しく擦る。綺麗にした後に、そっと素馨を背後から抱きしめた。
トクン、と一際大きく素馨の鼓動が鳴る。それに気が付かない振りをして、頭を軽く撫でると離れて泉の中に再び身体を沈める。
身体を伸ばしていると、肩に手を当てた素馨が俺の方を困った顔で見ているのが分かった。
「んー?」
「せ、背中!流すから、こっち来てよ。やらせるだけなんて、そんなことしないから」
「あら、やってくれるんだ。それは嬉しいなぁ」
いそいそと素馨の前に移動すると、水気を吸って背中に垂れてきた髪を持ち上げて、うなじが見えるくらいまできちんと頭の上でまとめる。
それを見ていた素馨が「うっ………」と顔を赤らめつつ呻き声を上げていたが、はて。
「どしたの?」
「なんにも!!?………なんでこの人、こんなに無防備なの………?」
どうやら聞き耳を立てないほうが良いらしいので、素馨が落ち着くまで水に揺られている。
陽光を湖面が反射して、幾つも淡い光が散る。夜の泉も好きだけれど、日中の泉も俺は好きだ。夜を支配する付きの代わりに、大地を見守る太陽がその姿を現すから。
ここに来てから色々と気にすることが多いため景色を楽しむことなんて全くしていなかったけれど、やはりこういう時間も必要だよね。
そんなことを考えていると、背中に優しい感触を感じる。
素馨が小さな両手で、俺の背中を洗ってくれているのだ。小さなっていっても俺の身体だってそこまで大きいわけではないんですけどね。俺の肉体が男のそれであれば話は別だったかもしれないが。
「気持ちいいよ、ありがとう素馨」
「ん」
素っ気なく頷きで返答されたけれど、表情が決してこの時間が嫌な物にはなっていないという事を教えてくれていた。
折角、素馨の気分が良い方に向いているのだからそのまま何か雑談でもしようとして―――口が、固まった。
一瞬だけ。素馨に気取られない程度だけれど、目を見開く。数瞬の間をそうしてから、睫を揺らして目を伏せた。
俺が魔法を使ってこの空間に満ちる魔力が濃くなったからなのか。魔法使いの才能を持つ素馨と直接触れあったからなのか。理由は分からないが………淡い記憶が、俺の中へと注ぎ込まれる。そしてその記憶は魔女の知識と一体化して、幾つもの情報へと変化した。
………妖人はその角の種類によって独自の文化を持つ。
神凪の国の歴史は長く、そして実は日本よりは大きな国土を持っているという特性が特殊な文化を形成したのだろう。神凪の国は限りなく日本という国家に近いが、異世界らしく決定的に違う場所も有しているのである。
例えば鬼角種は婚姻を結ぶ際に腕相撲を用いる、とか。龍角種は入浴時のように素肌を晒す際は必ず顔に仮面を被り、それを外して顔を素肌を同時に見せていいのは伴侶に限る、とか。
大きなものから小さなものまで、その文化は改めて思えば非常に多く存在する。
そして、獣角種が背中を見せるのは。背中に触れさせるのは。
”「獣角種の背に触れていいのは、番か親だけ。或いは、貴女を絶対に守ると誓った相手にだけ。だから、私は貴女の背にこうして触れるのよ。素馨………愛しているわ」”
響く声に聞き覚えはなく、けれど脳裏に映る場景には、幼い素馨と彼女によく似た女性の姿があった。
素馨と同じ黒の髪を腰辺りまで揺らし、素馨より少し大きな猫のような獣角を寝かせる美しい女性。
”「もう一時だけ、こうして触れさせて―――もしも、もしも私たちが戻らなくても。諦めては駄目よ。こうして、背を任せられる相手を探すの。信じられる相手を、背を差し出しても良いと思える相手を」”
背に触れさせて、そして相手の背に触れるのは獣角種にとって何よりも強い約束の形。貴方を守る、貴女を信じる。そんな意味を宿すのだ。
素馨は親に愛されていた。だからこそ、約束を刻んでいた筈だ。貴女を守るという、その果たされない約束を。
素馨が意味なんてないと吐き捨てたのは、彼女の親が約束を守れなかったから。約束ごと露と消えてしまったから。
「………救われないね」
「何か言った?」
「ううん。なんでもないよ」
素馨が俺の背を撫でる感触を目を閉じて感じる。
ねえ。君との約束を、きちんと果たせるようにしないとね。




