霧の中の大樹
……ここが、この本の中心地。
中心には巨大な、円卓の如き切り株が。
切り株、といっても、死んだ樹をイメージさせるようなものではない。
切り株の周囲には、生命の発露を感じさせる若葉が溢れ茂り、命此処に在り、と大樹が叫んでいるかのようだった。
その大樹に腰かけるのは―――真っ白な髪に真っ白な瞳。そして病的なまでに白い肌……と、色をどこかに忘れてきたかのような、そんな少女だった。
歳は若いのに色気はあり……街中などまともに歩けないような、振り向くどころではない美貌を誇っていた。
髪は絹より細く、周りに茂る若葉に絡まり、大樹を覆うほどに長く伸びている。ただし―――手足の先は、大樹の切り株と同化していた。
ああ、なんとも幻想的な少女であろうか。その見目が。在り方が。
「汝の事だ。我にとっては久しく、汝にとっては初の出会いだな」
「そうだね。俺は君みたいなトンデモ美人さんに出会ったことはないよ」
「汝も見た目はそう変わらんだろう」
そうかな?
この人みたいな美人では決してないけれど。
とはいえ、褒められて悪い気はしないけどね!
「……で、君が俺をここに―――魔導書の中に呼んだんだね?」
「左様。ふむ。知識は間違いなく受け継がれているようだな」
「みたいですなー」
誰の知識かと言えば、まあ千夜の魔女さんの…ですね。
「君は千夜の魔女の知り合いか何かなのか?」
「因縁はある。血も近くはある」
「ご、ご近所さんみたいな感じだねわかるとも!」
ごめん嘘ついた、わからないです。
喋り方も古風であるし、佇まいも年齢を感じさせる静けさだ。
見た目に似合わず、相当な歳月を重ねているのだろう。
今俺の眼に映っているこの娘が、切り取ったものなのか、本物なのかは置いておくけれどね。
「ふむ。あいも変わらず美しい身体よ」
「そう?」
俺オトコナンダケドナー。
……この娘が幻視しているのは俺じゃないし、俺が答える質問でもないけどね。
「で、だよ。本題に入ろうか―――俺、なんで呼ばれたんですかね?」
「見定めるためだ。汝をな」
身を包む純白の衣、その隙間に樹木の蔓が入り込み、パイプを取り出された。
それにどうやったのか、いつの間にか火をつける少女。
漂う煙の香りを嗅ぐ。
―――西洋蓍草の香り。
魔女を、魔物を追い払う神聖にして、優しき香りだ。
その香りを深く吸い込んだ彼女は。
「汝の瞳は何を写す?」
そんな、問いかけを投げ掛けてきた。
……とは言われましてもね?
俺にはそんな複雑で様々な意味合いを持った問いかけに答えられるような国語力は備わっていませんのでして。
残念ながら、ありきたりな言葉しか返せません。
「なにを写すかといわれれば、あるものを見ることしかできない……かな」
「あるものとは」
「唯そこにある……あり続ける事実だよ」
「なるほどな」
神聖に香る煙を吐き出した少女は、愉快そうに笑った。
ヤロウを纏う煙は俺の方に流れ……そして、俺に触れるころには嗅ぎなれたタイムの香りへと変容する。
そして、香りはやがてただの霧へと変わり――――さらに、見事な花々を咲かせた。
「―――――!」
「これを見て、どう思う?」
「綺麗です。……すごく、綺麗です」
「く、綺麗か。そうか。……ああ、それで善い。それが善い」
満足そうに笑う少女は、その時だけ年相応で。
まさに花が咲いたような、可憐な笑みを咲かせたのだった。
「決断を下そう」
だが、すぐにその笑みは消え、重厚な声へと戻る。
「励むがいい、その命を」
少女の腕の代わりに動いていた樹木の蔓が、手に持ったパイプ逆さまにし、灰を棄てる。
……いや。棄てられたのは灰ではなく、乳白色の霧であった。
それはふわりと世界を覆うようにして広がって――俺もそれに包みこまれてしまった。
「え、あれ……地面が……?」
足を付けていた地面が消失する。
それだけではない、身体は逆さまになり、落ちているのか浮いているのかすらわからなくなる。
そんな中で―――そっと、小さな腕が俺を抱きしめた。
「生きよ、命を。謳え、魔法を。紡げ、物語を。……我が妹に、祝福あれ」
白い腕、その持ち主は俺の額にそっと口づけをして、小さく笑むと……霧の中に溶けていった。
「―――さぁ、飛ぶがよい。汝にはそれができよう」
…………うん。飛ぼう。
手に持っている俺の杖を握りしめる。
杖のパイプ、そのボウルの部分を後ろに。握りを前に。そこに横向きに跨って空を翔ける。
セカイを包む霧を抜けて。さあ、帰ろう。
魔導書の外へ。俺の生きる、セカイへ。
――――光を、抜ける。
***
「マツリさん……マツリさん!?」
「……ぬあ。あ、おはようミーアちゃん」
「おはようじゃありません!」
目が覚めたら目の前にミーアちゃんがいた。
なんか、夢を見てたような気がするなぁ。
声を出しながら腕を突き出し、体全体を伸ばす。
ふと窓を見れば、既に夕暮れ時だった。美しい紫色。茜色の空だ。
「……夕日?」
「もう……目を覚まさないかと思いましたよ」
「む、起きたか。……また珍妙なものを手に取ったものだな、マツリ君」
「えーと、なにがですか?」
ミーアちゃんのすぐそばには、シルラーズさんも。
その手には古い装丁の本があった。
「伝承上でしかお目にかかったことのない、霧の書か。手にしたものは霧の魔法使いから秘術を継承することができるという、幻の魔導書だよ」
「そんなことはどうでもいいんです!マツリさん、怪我はありませんか?!」
「大丈夫だよー。というか本で怪我なんてするわけないだろー」
ただし、紙で指を切るは除外です。
……あれめっちゃ痛いよね。
「魔導書ならば死んでもおかしくはないものだ。よく生きて帰ってこれたな」
「本当ですよ……心配かけさせないでください……。なにが干渉するか分からないので、この図書館からも動くことができませんでしたし、いろいろ大変だったんですよ!」
「あ、うん。ごめん」
なんかよくわからないけど、ミーアちゃんに随分心配をかけたようである。
……これは悪いことをしたな。
なんだろう、気絶してたのかね、俺。よく眠る前の前後が思い出せないのだ。
「ところでだ、マツリ君。……霧の書、どんな内容だった?」
「え、内容とは」
「霧の魔法使いが記した、伝説の魔導書だ。それはさぞかし貴重な情報を得られたのだろう?」
「うーん……?」
なんという知識欲でしょう、さすがシルラーズさん。
でも申し訳ない……俺は何も覚えてないのだ。
「学院長。殴りますよ」
「……君たち姉妹はいろいろと喧嘩っ早いな、本当に。なに、半分は冗談だ」
「殴りますね」
「おいやめろ痛いだろうッちょ、おい!」
シルラーズさんが本格的に殴られていた。
……帰ってきた、何故か浮かんだそんな感想に、思わず小さな笑いが零れる。
「なにか、すごく綺麗なものを見た気がするんだけどなー」
忘れてしまった。
まあ、忘れたものは仕方ない。またの機会に思い出すだろう。
「あれ?」
胸元に手を当てると、いい香りを放つハーブがぶら下がっていた。
……ワイルドタイム。
――――俺と、あの娘の香り。霧と、煙の匂い。
「そっか」
少しだけ、わかったような気がする。
なにが、とも、何を、とも定義できないけれど―――しいて言うならば、このセカイの事が。
タイムの葉に、息を吹きかけ……煙へと変える。
さあ、行こうか。
積んだ本はそのままに、図書館の中でありながら少々騒がしい二人に混ざりに行く。
生きよう。謳おう。紡ごう。
それが俺だ。魔法使い茉莉だ。そして。
「そして、なるべく楽しく生きよう!」
「……?何がですか?」
「ううん?こっちの話だぜー」
―――俺の。魔法使いとしての人生が、ここから本格的に始まるのだった。