妖人の長、孤散
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障子に畳、鼻に香るのはイグサのそれと焚かれたお香。
種類は沈香かな。本来、日本には分布していなかった筈だが、そもそもこの世界は異なる世界なので分布図もあまり当て嵌まらない。
単純に交易品かもしれないけれど、ね。鎖国しているにせよある程度、物のやり取りは存在している。
「櫻渦城の中には存外、人が少ないのだな」
「楼閣に近づいております故。長の座す楼閣は側近の者以外立ち入りが許されないのです」
「色々と厳しい方なんですか?」
「いえ………実を言いますと、姿を隠して都の中を散策しているのを悟られないようにしておられるのです」
成程、いや隠せてませんが。八十さんと樹雨さんに既に露呈している。
というか城の中で働いている他の人にも知れ渡っている、俗にいう暗黙の了解というやつなんだろうね。
「そもそもとして長はあまり、玉座でじっとしていることを好む性質ではありませんから」
「アグレッシブな人なんですねぇ」
その一言で片づけてしまっていいのかは分からないけれど、まだ出会ってもいない人のことをどうやっても定義することは出来ないからね。
さて。先導していた二人の歩みが止まる。その先には、漆塗りの木枠に和紙や金箔、そして紅の絵の具を用いて彩られた、華美な襖が俺達を出迎えた。
襖の前には緋色の炎を灯す燈篭が二つ。炎を囲う紙には、狐の絵が透かしとして入れられていた。
「あら綺麗」
まるで生きているかのような躍動感を持つ狐の透かし。緋色の炎が舞い、飛び散った火の粉が一瞬だけ透かしの顔に当たって、本物の瞳のように光を浮かび上がらせた。
まあ、うん。十中八九普通の炎ではないんだろうね。何の変哲もない和紙に当たっても燃えなかったので。と、それはさておき。
先導の二人が、襖の取っ手にそれぞれ手を掛ける。そして視線を俺達に向けた。
「では」
「どうぞ」
「「お入りください」」
襖を開けると同時、二人は即座に跪き、頭を下げる。
先導はここまでらしい。この先にいるのは長だけなので、護衛も兼ねている彼女たちは確かにここまでで問題は無いんだろうけれど。
シルラーズさんが二人に対し「ご苦労」と声をかけ、先に一歩踏み出す。それを見てから俺も続いて長の部屋へと足を踏み入れた。
「空間が歪んでいるな。神凪の国を囲う結界に近いが、こちらは妖力によるものか」
「みたいですね。国を覆う結界には魔力の匂いがしましたが、これにはありません」
シルラーズさんとそんなやり取りをしつつ、周りを見渡す。
外から見た櫻渦城の天守閣は確かに立派だったが、こんなどこまでも続く畳も、遥か遠くに立ち並ぶ幾つもの襖も、高すぎる天井も収まる余地はなかったはずだ。
と、なればこの光景は何らかの秘術によるもの。それもシルラーズさんが看破した通り、幻覚の類ではなくて実際に現実の空間を拡張している、大規模な類の秘術である。
「良く来てくれたのう、魔法使い。そして付き添いの魔術師よ」
幼い、声が響く。
しかし声音の使い方は老獪な老人のようなそれで、そして。視線もまた、その容姿とは全く異なる印象を与えた。
「お初にお目にかかる。カーヴィラの街、アストラル学院の学院長を努めているシルラーズだ。そしてこちらが」
「依頼を受けました、魔法使いのマツリです。よろしくお願いします」
―――幾つもの智慧を秘めた、細まる金色の瞳の持ち主。彼女の見た目は、今の俺よりも少しばかり幼い年頃をした、獣の耳を持つ少女であった。
腰辺りには作り物ではないであろう質感を持つ、緋色の尾。耳と髪もそれと同じ色合いである。
間違いなく長だろう。彼女は一段高くなった上段の間に座り、その背後には長い刀身を持つ刀と、盆栽が置かれていた。
ああ………確かに、二人が言っていたように少女の姿は美しい。けれど、多分あれは本来の美しさを隠している。
「神凪の国、現在の長を努めている孤散だ。ほう、ほうほう―――マツリ、と言ったな。うむ、実に………実に良い」
長、孤散さんがパシンと音を鳴らして手を叩く。その瞬間、彼女の姿は俺の目の前に移動していた。
驚くべきことに単純な瞬間移動だ。高等な秘術を息をするように熟して見せるとは。
………いや、うん。というかですね。
「あの、孤散、様?近いです、すっごく」
「うむ、うーむ。髪も肌も瞳もどれも一流の工芸品のようじゃ。良いのう、良いのう。妾は美しいものが好きなのじゃ」
「はあ………そうです、か」
手が頬に触れられる―――甘く、香りが立った。
香りの主は、孤散様と俺両方だ。跳ね上がった鼓動に思わず目を見開く。
「………ふむ。だが、妾があまり触れすぎてもいかんな。付き添いの魔術師殿も黙認してくれるわけでも無いようじゃ。この辺りにしておこう」
黄金の瞳を輝かせつつ、そう言った彼女が後ろ向きに跳ぶ。一足飛びに上段の間の、先程まで己が座っていた座布団の上に着地すると、そのまま肘掛けに身体を預ける。
「ええ、そう………してくれると、助かります」
若干の眩暈を堪えながら右目に手を当てる。そのまま少し頭を振ると、改めて孤散様に視線を向けた。
「マツリ君。無事か?」
「問題は無いです。何も」
「そうか。話せるか?」
「はい。孤散様との会話は俺がやります」
シルラーズさんが俺の肩に手を乗せ、小声で確認を取ってくる。それに対して大丈夫だと返答すると、一歩踏み出して孤散様の前に立った。
確かにシルラーズさんは俺の保護者………守護者的な意味も持つ………ではあるが、ここから先は俺の仕事だ。
頼らないというのは違うが、かといって頼りきりにするわけにもいかない。現代風に言えば業務内容の確認ともいえるこの先の会話は、きちんと俺がやらなければならない仕事である。
「それで、俺が導くべき弟子、というのは?」
「うむ。まあ座れ、マツリ。そして魔術師殿も、な」
指で畳を指すと、そこに虚空から座布団が現れる。更に数度手を叩くと、一瞬で歪んでいた空間が元に戻り、静かに開いた襖の奥からは、給仕係だと思われる女性がお盆を持ってやってきていた。
かちゃりと音を立てるお盆の上に乗せられている物は、湯気が立つ緑茶と羊羹。
ちなみに、その給仕係の女性の頭には、孤散さんと同じ耳が付いていた。
「空間を歪ませていたのは貴女だったか」
「一応防衛のつもりでな。妾とて、海の向こうからやってくる相手には慎重にもなるということじゃ。こんな姿でも一国を預かる立場だからのう。妾が急にくたばっては、子供たちが路頭に迷う」
そう言う孤散様の手には、いつの間にか透き通る硝子製の盃が握られていた。給仕係の女性がそこにお酒を注ぐと、それを一息に飲み干す。
匂い的に日本酒だろう。名称的に日本酒では通らないだろうが、米を用いた醸造酒に変わりはないと思われる。まあそれはどうでもいいかな。
「ご苦労、四藤。ああ、そこに座っておれ、客人たちには妾たち妖人の説明が必要じゃ。………八十、樹雨、貴様らも入ってこい」
「「は」」
部屋に踏み入れてから一瞬で閉まり、遠ざかっていたはずの入り口の襖が開き、奥からずっと控えていたであろう八十さんと樹雨さんが頭を下げたまま部屋の中へと入る。
護衛を兼ねているためだろう、それでも彼女たち二人は入り口近くで待機しており、孤散様が渋い顔をしていた。
「真面目か主ら、四藤と同じように妾の隣に座らんか。………ふう、まあ良い」
姿勢を正した孤散さんが、俺の瞳に視線を移す。
俺よりも更に長いその緋色の髪を揺らしながら、深く息を吸った。
「仕事の内容を語る前に、妾達について語らなければならぬ。のう、どうせ、知りたいのだろう?」
「当然だとも」
「そりゃあ、知っていたほうが良いですし、お願いしたいです」
「うむ。正直で結構じゃ。………では、語るとしようか。妖人の種類と、そしてマツリ。お主の弟子になる、娘についてをのう?」
ちらりと、孤散様の唇の下から鋭い八重歯が覗く。そして、踊るように―――朗々と声が響いた。