神凪の国、上陸
***
小舟が波間を駆ける。鼻先を飛沫が掠めて、覚えのある匂いが漂った。
………どうにも懐かしい故郷の海。航海都市アルタのような透き通る海ではなく、濃い色をしたこの海の匂いは間違いなく、元の世界、生まれ育った国のものだろう。
まあ極東に立地する神凪の国だ、地理的に見ればそうなるのは当然だろうけれど。
「―――切り替わったな」
「ですね」
オールを使って船を漕ぎながら、シルラーズさんがそう呟いた。俺もその言葉に頷くと、改めて周囲を見渡す。
景色に違和感はない。というよりも、違和感がなくなったことが囲いを通り抜けた証明だ。
漕いでも漕いでも、すぐそこにある筈の陸地に一向に辿り着かないという異常。それが取り払われ、海の上をようやく普通に船が進んだ。
どうやら、見分は済んだらしい。そして、船が進みだした事と同時に神凪の国の陸地がはっきりと見えるようになってきた。
「砂浜の向こうにきちんと整備された森林か。炊事の煙も見える………漁村だな」
「という事はどこかに船着き場がありますね」
「ああ。事前に指定された海域から入ったのだ、これくらいは考えられているのだろう」
リヴァイアサンの領域とセイレーンの海域をわざわざ乗り越えてやってきたのは、単純に神凪の国が危険な海の上にあるというだけではなく、神凪の国へと入る場所が指定されていたためだ。
それもあって、腕のいい船乗りたちを頼らざるを得なかった。まあ、あの船旅は結構楽しんでいたんですけどね。それはさておき。
シルラーズさんが小舟を操って、浜から伸びている桟橋へ横づけする。というか当たり前のように小舟を操っていたけれど、この人は本当に万能なので深くは気にしない。
凡そ、人間が出来ることは大体できるからなぁ、シルラーズさんって。
「ふむ。太い樹木が用いられた良い桟橋だ。揺れもしない、軋むこともない。それでいて長く作られている。天罰の獣号すらこの桟橋を利用できるのではないか」
「多少ぶつかっても壊れないかもしれませんね、これ」
先に降りたシルラーズさんが足元を確認する。そして手を差し出されたので、その手を取って俺も桟橋の上へと立った。
成程、確かに頑丈な作りだ。桟橋というやつは軽量さが売りであり、地盤が緩くても作ることが出来るという大きな利点があるが、その代わり船の衝突で壊れてしまうことも多い。
だがこの桟橋はその心配はなさそうであり、それは桟橋を支える支柱が非常に海底の深くまで突き刺さっていることが理由なのだろう。
魔法か魔術か、何かを使ったと推測は出来るんだけど、実際にはどのような手段を用いたかは不明である。
「時刻は午後三時か。アフタヌーンティーの時間だな」
「シルラーズさんそんな趣味在りましたっけ」
「私には無いさ。だが、割とカーヴィラの主は好んでいるからね。付き合わされることは多い」
つまりはカーミラ様のお相手という事ですね。二人とも街の重鎮だけれど、一体どんな話をしているんだろうか。まあ俺が深く突っ込んで聞くべきことではないか。
その思考を頭から振り払うと、影の中から杖を取り出す。そして、そのまま影を二度、杖の先で叩いた。
「水蓮、水蓮。大丈夫?」
「問題はない―――だが、奇妙なものだ」
影の中から水蓮の声だけが響く。
「この地には、私のような名を持つ同胞が居ない。居ても形を持つことが精いっぱいの名もなき者ばかりだ」
「ほう?それは興味深いな、後で詳しく話を聞かせて貰えるか」
「………自分で調べるがいい、魔術師」
「つれないね、水蓮。神凪の国は私も知らないことが多い。この機に色々と知っておこうと思っているのさ、少しくらいは手伝ってくれたまえ」
「私も詳しくは知らん。手伝えることは無い」
「そうか。それは残念だ」
肩をすくめるとそのまま歩き出すシルラーズさん。随分と長い桟橋を足音を立てつつ進むと、後ろから声をかけた。
「目的地って、あの漁村なんですか?」
「いいや。ここは我々にとっての玄関口というだけだ。君の仕事場は別の場所にある。ところでマツリ君、魔法は使えそうか?」
「はい。普通に使えますよ?」
「………ふむ、そうか。この国に満ちる魔力はどうにも少なく、そして性質が随分と古い。並の魔法使いなら魔力欠乏を起こしていそうだが」
白衣のポケットに手を突っ込んだままの彼女が、俺の瞳を改めて眺める。
「だとすれば、だからこそ。君が呼ばれたのだろうな」
「………俺の名前なんてそうそう広まっていない筈ですけどねぇ」
「同感だ。広まらないように私たちが日々努力しているわけだからな。にも拘らず君のことを知っているとなれば、事によってはこの神凪の国というやつは厄介な相手がいるかもしれない。心の隅程度にそう注意を留め置いてくれ」
「―――分かりました」
まあ、確かにそれは俺も思ったのだ。
アストラル学院は秘術研究の最先端を行く場所である。この時代に魔法使いは少なくとも、完全に絶滅したわけではないのでアストラル学院に頼むのであれば紹介状等を他の国なり都市に出して必要人材を手配するのが普通だろう。
でもシルラーズさんは依頼を持って俺の家に来た。それは恐らく、依頼者が俺という存在を指名したから。
俺の名は知らないのかもしれない。けれど俺の身体については知っているのかもしれない。
或いは。妖という呼称を持つ彼らが、千里よりも遠い場所の変事を認識できる力を持っている、という可能性もあるだろうけれど、ね。
どうであれ厄介な相手だろう。敵ではないけれど、確かに俺についての情報は悪用されると困った事態になることも考えられるから。うん、やはり俺という存在は結構この世界だと面倒な立ち位置にいるよね。
さて、そうこう話しているうちに桟橋の根元へと到着し、砂浜へと足を踏み入れる。外出用のブーツが砂を踏み、足を取られそうになった。
「こんなブーツで砂浜に立つものじゃないですね」
「そもそも砂浜自体、旅の最中にあまり好んで向かうべきところではないよ………さて」
前を歩いていたシルラーズさんが立ち止まり、そっと手を横に伸ばす。どうやら動きを制されたらしい。
鼻先を動かすと、成程。煙の立つ漁村へとつながる森の奥から、何かの匂いが漂っていた。
―――人のようで人ではない。けれどあちらさんとも、怪異とも、魔物とも違うそれ。
しいて言えばその中のいくつかが混じり合ったような不思議な匂いは、俺にとっては何故か、懐かしさと親近感を感じさせるものだった。
………おかしい。神凪の国近海の潮の匂いとは違って、彼女たちの匂いなんて俺自身とは関わりがない筈なのに。
「君たちは?」
「敵対する意思はありません。我々は神凪の国の長より遣わされた使者です」
「魔法使い様をお連れするように、と」
「ほう」
「迎えを用意してくれてるとは有難いですね」
………魔法使い様、かぁ。やはり俺個人が認知されているわけではないらしい。
「眼前に立つことを失礼いたします」
森の木々が揺れ、二人の女性が俺達の前に姿を現す。
―――その二人は………もうこの世界に来て大分経つので、今となっては特に驚くようなことでも無いんだけれど………普通の人は持っていないいくつかの特徴を持っていた。
「私は八十と申します。隣のこいつは樹雨。我ら共々、この神凪の国にて暮らす、妖人に御座います」