霧の中
「設置場所も増やさねばな……。まあ、教員棟よりも学生棟の方が急務か」
「そうですね。あちらの方が広いですから」
教員棟とは、いま私たちがいるこの内側の棟。
学生棟が、ここから見える、教員棟を取り囲むようにして建っている建物だ。
基本的に重要、或いは特殊な施設は教員棟に集合している。
なぜかというと、立地的にも魔術的にも、この中央の方が強固だからです。
特に、図書館などは魔導書なども多く仕舞われているため、学院内でも最高レベルの結界が張られています。
力のある大妖精でも破るのは難しいほど……といわれていますが、力ある、旧い妖精ほどあまり自分の領域から逸脱することは少ないので、どこまで信頼性があるのかは微妙ですね。
ちなみにですが、魔導書とは―――千夜の魔女を筆頭として、力のある魔法使い、或いは魔術師が記した、読む魔法/魔術です。
書かれている内容は千差万別ですが、書いた当人の魔力と感情が込められているそれは、非常に危険な書物です。
一度だけ私も経験がありますが―――その人のセカイに引き摺りこまれる。そんな、突拍子のないことが起こってしまうのです。
どんなことが起こるのかは千差万別ですが、記憶の追体験をさせられたり、壷中天のごとく、書物の中の異世界に連れ去られたり……まあ、得られるものがないとは言いませんが、命すら奪われてしまうこともざらなので、触れぬが正解といったことろでしょう。
もう一つ、魔導書には厄介な性質があるのですが……まあ、滅多にないことですので、いまはいいですかね。
「ついた。……やはり少し歩くのは面倒だな」
「あなたは転移できるでしょうに」
「二人で探した方が効率的だろう」
まあ、それも事実ですが。
図書館の扉を開けて、中に入る。
―――微かに、タイムの香りが抜けたような、そんな気がした。
「さて、どこにいるか……図書館の中自体も広いからな、探すのも一苦労だ」
「まあ、目立つ容姿ですし、見渡せば……どうですかね」
なんでしょう。嫌な予感がますますしてきました。
……姉さんを呼んできた方がいいでしょうか。
姉さんは直感が非常に優れているため、こういった人探しには向いているのです。
腕っぷしも親衛騎士団の中でも最高レベルですし。
ああ、でも……呼ぶのもそれはそれで時間かかりますし……。
「手分けして探すぞ。これを持っておけ」
「はい」
手渡されたのは、小さなペンダントだ。
中央に、紅い宝石が埋まっているのが特徴である。
……これは通信機です。
固定されている電話とは違い、範囲に限りはありますが、声を届けることが可能な道具。
高級で、なおかつ特殊な宝石を用いなければならないという欠点はありますが、渡すだけで万人が使用できるという、便利この上ないものです。
これとは別に送念機とよばれる魔術道具がありますが、それは所有者が魔術師、或いは魔法使い―――つまるところ、魔力を持つものでないと使用できない類の道具になります。
「さて……彼女ならまずどこへいくかな」
「マツリさんなら……あそこですか?」
指をさす。
そこは、初心者向けの……子供向けの魔術読本が収められている棚であった。
彼女は自分の力量とか、そういったものはきちんと把握してはいる感じですし、その前にまずは初歩的な知識から蓄えようとする……そんな感じの人ですし。
多分……おそらく。
いえ、絶対あそこにいます。
それにほら―――なんとなく、ワイルドタイムの香りが強くなってきたような気がしますし。
「なるほどな。その直感に従ってくれ。私は私で別のところへ行く」
螺旋階段を下り、一階へ降りる学院長。
「あら、どこへ行くのですか?」
「ああ、ちょっと確認をな。図書館を出ていた、という選択肢をなくすためだ」
……ああ、なるほど。
確かに、いない人を探し回ることほど無駄なことはありませんし。
一階へ下ったのは、本の貸出を管理する司書官が一階にいるからですね。
司書官、フェネル。……この広大な図書館すべての蔵書を把握する、図書館の怪物。
私はなんとなく波長が合いますが―――姉さんは苦手なようです。
無口だから、ですかね。
「急がないと」
もはや危機感は確信へと変わって。
……私の勘は、当たるのです。血筋柄なのか、生まれつきなのか、偶然なのか。
それは分かりませんけれど。
とにかく、当たるのです。
―――マツリさん、どこですか。
***
「……ありゃ、ここどこだろ」
周りを見渡す。
視界全てを覆い尽くすのは、白い煙……いや、霧かな、これ。
くんくん……匂いを嗅いでみると、あら不思議。
風味豊かなワイルドタイム―――即ち、死を運び、死を祓い……あちらさんたちが何よりも好む、摩訶不思議なハーブ。
なぜこんな香りがするのだろう。
妙な親近感を覚えながら、この香りの発信源となっているところへ向かう。
「こっちのほうが匂いが強くなっている。こっちかな」
方向感覚すら得られない、視界を潰す霧の中。
己の嗅覚を頼りにして、ひたすら歩く。
そういえば。なぜ俺はこんな場所にいるのだったか……?
「図書館にいて……それから?それから……」
本を、開いたような……?
文章の代わりに変な図形が描かれた、普通の人間ではまず書かないような奇妙な本。
というか、文章が書いてない時点でもうそれは書籍物ではない。
漫画、とも違うけどなー。説明が難しい。
……魔導書。
そんな言葉が頭の中に浮かんだ。
ああ、また謎の知識さんの出番ですか。いいけどね、便利だし。
「問題は、何の魔導書か、だけどね」
魔導書といっても、あちらさんが面白半分に記したもの、魔術師が記したもの、魔法使いが描いたもの……そして魔女が生み出したもの、というようにいくつか種類があるみたいだし。
此度のは……感覚的に魔法使いかな。
ま、そんなことはどうでもいいか。
小難しい理論やらなんやらをすっ飛ばして、既に魔導書の中に入り込んでしまったのだ、という事実だけは分かっているのだ。何故とか、どうしてとかそんなことを突き詰める必要なんてどこにもない。
それよりもこの魔導書を歩んで、楽しむことが一番の正解だろうし。
……本の中を歩くって、結構稀な体験だもんね!
昔はよく、本の中に入ってこの物語の登場人物になりたいなー、とか漠然と考えたことがあったけど、今はその状況に近いわけだ。
心高鳴る、ですな。
欲を言うならば、もう少し本がどんなものだったのか……それを知っておきたかったけど。
気がついたら魔導書の中、というこの状況だったからね。如何せんどうにも。
「うーぬ……」
凄く濃い霧の中って、なんかテンション上がるよね!
……子供か、なんていうツッコミはしないでもらいたいです。
でもこの気持ち共感してくれる人。結構いるのではないだろうか。
霧で覆われたセカイというのは、現実で最も起こりやすい非日常。
普段見ている光景が乳白色に溶けて現れるのは、非日常に片足を踏み入れているかのような錯覚を与えるのだ。
人間は誰しも、幻想を知らないのに幻想を求める生き物。
だから、きっと。この光景は大多数の人間が、気分を高揚させるはずだ。
―――ま、幻想を知らないっていうのは、俺のいたセカイの人にしか言えないかもしれないけどね!
「霧深い森歩むのは、森と共に生きる賢者達。彼方と此方に揺れ住まう、魔法使い」
「…………ついた、かな」
透き通るような声が響く。