海の妖魔、セイレーン
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「直進、4ケーブル」
「イエッサー、直進4ケーブル!!」
ぐるぐると羅針盤が針を回す。それを地図や磁石と組み合わせ、ただの方向を道へと変えていくのはシルラーズさんだ。
凄まじい情報処理能力を以って”セイレーンの浮き海月”に満ちた海域を突破していくのは、常人では難しい天才ならでは。普通に考えて魔術を用いた技術を扱える航海士なんてこの世界にもそうそう居ないからね。
確かに船に一人、魔術師の分類の一種である占星術師が乗ることはある。天罰の獣号にも占星術師は乗っている。けれど、彼女たちの秘術を行使した仕事は星を詠み、多少の船旅の未来を知るだけであり、殆どの場合は船に内蔵された魔力機関の整備や星詠みの技術を使った方向管理などである。
今、こうしてシルラーズさんが行っているような、叡智を以って海魔の領域を突破すると言ったことは専門外ということ。そもそも船乗りたちにとってリヴァイアサン以上に天敵なのがセイレーンだからね。出会わないに越したことは無い。
ちなみに。先程から言われているケーブルという単位であるが、これは海の上で距離を表すのに使われる単位の一つだ。1ケーブルは約185mであるとされているが、この世界でも大体その程度らしい。ゼーヴォルフ海賊団の船員たちは1ケーブルと言えば確実にその距離を移動してくれるので、やはり腕がいいことが窺い知れる。
「ふむ。船が沈まないことに違和感を持ったようだ。先の海域が泡立っている」
「セイレーンたちが集まっているってことですね」
「今更だが。我らの天敵は一体どのような姿をしているんだ?残念なことに、私たちの誰もが彼女たちの姿というやつを見たことが無くてね」
そりゃそうだ、船乗りにとってセイレーンの姿を見るということは船から落ち、セイレーンに捕食される寸前、命の終わりの間際である。
生きている船乗りが彼女たちの姿を見ることは稀である。彼女たち自身も、海から離れられない以上は船上に上がることもないからね。
「想像通りですよ。上半身は見目麗しい人間の女性。そして下半身は鱗を持つ魚の尾。………けれど、もう一つだけ知られていない特徴があります」
この世界のセイレーンは俺達の世界のセイレーンとは別物だ。リヴァイアサンもそうだけれど、神話より産まれた怪物ではなくて、千夜の魔女という人外の存在が生み出した怪物だから。
「―――ほら、すぐに出てきます。気を付けて、攻勢に入りましたよ」
海の上を漂う”セイレーンの浮き海月”がその光を消す。それと同時、天罰の獣号の周囲で鳴り響いていた美しい歌声が一瞬で止んだ。
どうやら一向に座礁する気配のない船に痺れを切らし、直接攻撃を行うつもりのようである。
彼女たちも千夜の魔女が生み出した魔獣の血を持つ魔物だ、船を沈めさせる手段は歌だけではない。外敵に備え、戦う手段は持っている訳で。その牙は、必要があれば勿論振るわれる。
「―――、―――!!!!!!!!!」
「………なんだ、この異音は」
「セイレーンの喉は美しい歌声を紡ぐだけではないという事だ、ゼーヴォルフ。海の下からですら彼女たちは美しい歌声を船の上に届ける。その声量を破壊的に使えばどうなるか、分かるだろう?」
即ち、魔力を帯びた音波による攻撃。
「ッチ、呑気なものだな」
船が揺れる。音波が船体に直撃したわけではないが、超高音のそれが波を揺らし、間接的に船の上にいる俺たちをも揺らしたのだ。
「対処はどうする」
「ふむ。いや、君たちは私の指示に従って操舵を続けてくれ。寧ろ浮き海月が消えた今の方が距離を伸ばす絶好の機会だからね」
「その羅針盤は魔力の歪みを捉えるものだった筈だが、浮き海月が消えた今、どうやって道を得る?」
「おいおい、なんのためにマツリ君がこの領域に夜を敷いたと思っている」
シルラーズさんが指す先は、昏い闇の中でも目立つ、大きく華麗に灯る星の火だ。即ち、それは不動たる北極星。
………あまり知られた航海技術ではないけれど、かつて近代計器の存在しなかった時代には星の航海術と呼ばれる、夜空の星を用いた航行法が存在していた。
それを使えば、凡そ五千キロに及ぶ道のりを走破することも出来たそうだ。太陽を始めとして、天体を用いた航行技術は多いけれど、本来ならばセイレーンはその空の天体すら虚構へと変えてしまうからね。
なお、何故太陽のある昼ではなく夜なのかと言えば、この夜を敷く魔法が本来の俺のものではなく、千夜さんのものだから。彼女にとっては昼よりも夜の方が適性があるというだけの話。
さて。俺のそんな魔法をシルラーズさんが分かりやすくゼーヴォルフに説明してくれた。
「海域を覆う夜はセイレーンの歌の幻惑に対する防護策というだけではない。彼女たちが扱う方向を見失わせ、景色を歪ませ、船の計器の類を狂わせる魔法に対する対抗手段なのさ」
「………星詠みの船旅とはな、中々に愉快なことをしてくれる!月がないのは星を見やすくするためか?」
「ええ。ゼーヴォルフ海賊団なら星の航海術も出来る、という信頼の上でこの夜を用意しました。………気を付けなければならない箇所はシルラーズさんが教えてくれます。俺は彼女たちの相手に専念するので」
「ああ、了解した―――任せたよ、魔法使いのお姫様」
お姫様という呼称は相変わらず慣れないなぁ。まあ、とはいえだ。
仕事ですからね、ええ。キッチリとやりますとも。リヴァイアサンを己の腕のみで退けるという異形を熟した海賊団に対して、適当な仕事を魅せるわけには行かないからね。
ローブの内側に手を伸ばす。取り出したのは、二枚のセンネンボク―――コルディリネフルティコーサという植物の葉だ。
ハワイに於いて生命の神カネ、愛と平和の神ロノ、火の女神ペレに捧げられたという、航海中の嵐を押しのけるお呪いに使われたもの。
「『麗しき楽園の神々よ 雨除け風除け災い逸らし 撃ち払う焔を貸したまえ!!』」
指に挟まったコルディリネの葉は二種類。違うのは色味だ。
一つは緑色であり、もう一つは赤色。このうち、赤色のコルディリネは気性荒い火の女神ペレに捧げられたものであり、本来ならば守護の魔法には使われない。
災いを避ける防護壁に用いられるのは緑色の方だ。なのでまず、そちらの緑色のコルディリネを宙に放り投げた。
そして、影の中から取り出した杖の先端で、その葉を突き刺す。
「―――ッ??!!!!」
海中にいるであろうセイレーンたちから動揺が伝わる。
海面は強く振動しているというのに、衝撃は船に伝わることは無く、その幾分か前で阻まれたかのように堰き止められていた。
………船を覆うのはコルディリネの葉から作り出された淡く透き通る霧だ。これによって単純な音波攻撃や接近を防いでいる。
でも、彼女たちを相手取るならば盾だけでは心許ない。
忘れてはいけない。彼女たちは、かつての千夜の魔女との対戦時、あの千夜の魔女手ずからに生み出された魔獣であったのだという事を。
赤色のコルディリネを唇に当てる。そして、息を吐いた。
「ゼーヴォルフ、あの水面が振動している場所には船を進ませるなよ。海上で落下死なんていう結末は迎えたくないだろう?」
「自然現象としてみたことがあるが、浮力を消失させるガスの吹き上がりか!」
「お頭!!船の進路全体に吹き上がりが―――!!」
バミューダトライアングルでの船の難破、その科学的な理由の一つであるとされる海中に埋蔵されたメタンガスが何らかの原因で放出され、海上に吹き上がることで船の浮力が消失し、海の中に音もなく落ちるという現象。
セイレーンが捕食ではなく排除として人間の船を相手取る際に使われる戦法は、その原理を用いたものである。
海の上に大量にばら撒かれた落とし穴のようなものであり、単純に厄介なんだよね。ちなみにこの落下による船の破壊は、運が悪いと船がセイレーンの活動限界深度より深く沈んでしまうため捕食ではあまり使われない。
「マツリ君、対処は出来るかね」
「ええ。問題はありません」
空に放り投げる、赤色のコルディリネ。それが、紅の燐光を纏った。
ではでは、闘争のお時間です。殺しはしないけれど、少しばかり追い払う程度はしますとも。