歌う海の魔物
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「やれやれ、酷い揺れだったな」
「シルラーズさん、船酔いする質でしたっけ」
「まさか。だがあれ程揺れてはただ椅子に座って煙草を吹かすわけにもいかないからね。姿勢の変更で地味に忙しかったよ」
リヴァイアサンと駆けまわっている最中にこの人、船長室の中で煙草吸ってたのかぁ。
白衣に汚れた後などはないので、俺が飛ぶくらいに揺れていた船内でも何かしらの手段を以って普通に立っていたか座っていたかをしていたらしい。
魔術でも体術でも驚かないですけどね、ええ。俺が言うのもあれだけれど、この人は規格外なので。
「ゼーヴォルフ。帆も操舵も一旦取りやめだ。私たちが指示を出すまで待機」
「了解した。………ほら、お前ら休めよ休め!ここからは余計なことをしないのが仕事だ!!」
―――うん。まさにゼーヴォルフのいう通り。
俺の撒き散らした夜の中に、深く響き渡る歌声。それは今もまだずっと鳴り響いている。
船乗りの天敵。全ての海に生きる人が恐怖する、誘いの手。大怪物の咢からすら逃げて見せた海上の勇者たちも………いや。勇者だからこそ、彼ら彼女らはそれには勝てないのだ。
勇者の身を亡ぼすのは、いつだって酒と賭博と。
………美女、なのだから。
「なんだ?海の中が光ってやがる。海月、いや」
「………離れろ、なにか………おかしい………」
海賊団の男たちが騒めき始める。海面近くに、月を写したかのように光が現れたためだ。
当然ながら、それは太陽と呼ぶにはあまりにも弱い光である。そして、俺の生み出した夜の中には月は存在していない。
では、あれらは何か。答えは簡単だ。
「妖婦、セイレーン。お出ましか、我らの天敵よ」
ゼーヴォルフがそうぼやく。
月のない夜に融けていく歌声。俺の魔法による減衰が無ければ、この海賊船はとっくに座礁し、船員たちは皆、妖婦に食い殺されていただろう。
セイレーンとはそういう怪物だ。美しい歌声は船乗りの魂を奪い、唆し、死へと向かわせる。
船の歩みは爛れ、朽ち果て、やがて意志のない亡者だけで埋め尽くされた船を彼女たちが喰らいつくして終わる。
「大陸近海のセイレーンは好戦的だな。自ら水中を泳いで船の周りにやってくるとは」
「リヴァイアサンの領域に近いですからね。彼女たちも時代を経た魔獣ですから、この世に身を受けた生命、魔物に近い存在となっています。そうなると、リヴァイアサンと彼女たちは同じ人間という獲物を取り合うライバルなわけです。そりゃあ、獲物を失わないように囲むでしょう」
「………魔物を生命と呼ぶか否かは大陸中の国家が常日頃から考えている問題点である以上、私はあれらを生命ともそうではないとも呼べないがね。だが納得は出来る」
俺の価値観としては魔獣というのは生物の成りそこない―――いや、途上の生命なのだろうと思うけれど。まあ、俺の価値観と世界の定義はまた別物だ。
そもそも世界の定義で言うならば、千夜の魔女の肉体を持つ俺は明確に人類の天敵だし、ね。
まあそれはさておき。
俺の張り巡らした夜は、彼女たちセイレーンの歌声を阻み、そして道を混迷の霧の中へと沈ませる能力を相殺している。けれど彼女たちも千夜の魔女に連なる怪物だ。人類の天敵であった過去を持つ以上、ただでは転ばない。
「あの光、空間を歪ませてますよねぇ」
海中に漂う大きな海月にも似た光は、セイレーンが扱う魔法である。
本来は精神を甘く支配する歌によって航路を歪ませる彼女たちだけれど、そもそも海において彼女たちは恐ろしく素早く動き、秘術によって身を護る。
天罰の獣号を囲うようにして展開された光、”セイレーンの浮き海月”は海中の空間の接続をめちゃくちゃにしているため、強行突破しようとすれば船の底を不可視の岩石に突き破られ、座礁してしまうのだ。
うん、強いて言えばあれらはアストラル学院にある固定転移魔術の発展系、って感じかな。
「セイレーンのあの魔法は本来、人類の船の大軍を相手にするために千夜の魔女から与えられたものだというがね」
「んー。そうかもしれませんね」
俺は魔女の知識を持つけれど、古の大戦に関してはあまり知識の解放が行われにくい。自分で探すのも難しいくらいに、だ。
「~~」
「~~~~~~♪」
「~~~」
海の底から声が響く。どこまでも美しい歌声は、魔力を奪い去ってもその音色だけで人など容易く陥落させてしまいそうなほどに。
「楽しそうに歌っているな、全く。こちらの気も知らないで」
「歌うことが捕食活動ですから。さて、では俺達も動き出すとしましょうか」
撒き散らした夜も永遠ではない。かつてギリシャ神話の英雄船アルゴナウタイはセイレーンに出会ったとき、竪琴の名手オルペウスによってその歌声を打ち破り、無事に海域を突破したというけれど、俺は残念ながらそこまで優れた楽器の腕前を持ってはいない。
そもそも彼らは英雄だ。身に宿る力も意志も、只人とは大きく異なっている。
参考にすることはあっても、完全に手法を真似るのは悪手だろう………ということで、だ。
「ここに用意するは、魔力を探知する羅針盤。そして夜の闇を見通す遠眼鏡―――彼女たちの生み出した呪いの海域を、これら魔術の英知を以って突破して見せよう」
………科学の代わりに魔術が発展した世界ならではの攻略法。魔力が資源として存在しているからこその道具たち。
シルラーズさんが手に持っている羅針盤は、魔力の歪を探知する。そして俺の展開した魔法の夜も、遠眼鏡を用いれば先を見通すことが出来る。これがあれば、歪んだ空間の中に一筋だけ残る正しいルートを見つけだすことが出来るのだ。
ちなみに。なぜ正解のルートが存在しているなどと確定的に言うのかも、割と簡単な事だったりする。
「成程な、我らの天敵が生み出した魔の海域、歪んだ水面も船の道全てを塞いでしまっては彼女たちも近づけないのか」
ゼーヴォルフのいう通りだ。この世界のセイレーンは陸の上には上がれない。半身を水の中に浸していなければ、彼女たちは瞬く間に干からび、死に絶える。
その一方で、セイレーンはあまり深く水中にもぐることが出来ない。それは彼女たちの容姿や能力に関係しているのだが、ここまでくると彼女たちは皆、海に縛り付けられるという呪いを浴びた存在のようにも思えるよね。
まあそんな訳で。船の通り道を全て塞ぐように魔法を展開してしまえば、彼女たちは自身の魔法のせいで近づくことが出来ないのだ。故に一筋、セイレーンたち自身が船に憑りつくための道が必ず光の中に存在している。
大戦時も人類の英雄を乗せた船は、そうしてセイレーンの海域を踏破したらしいから、ね。
「それにしても、マツリ君。君が本気を出せば船を囲うセイレーンなど蹴散らせるのではないか。単純な力で言えばリヴァイアサンの方が上だろう?」
「シルラーズさん、言ったでしょう。彼女たちは最早、純然たる生命に近しい存在です。無理に命を奪えば、必ず―――弊害が起こりますよ」
「………ああ、そういうことか」
俺は彼女たちセイレーンを、人々のために殺すことが出来ないのである。だからこその脱出策だ。
さあ、それでは再びの出航と行こう。魔法使いのお仕事の始まりだ。