船上にて
***
出発の日は、爽やかな風が吹きつける晴天だった。とはいえ、晴天とはいっても太陽の代わりに月が覗いているのだが。
乗り込もうとする巨大な木造船にはゼーヴォルフ海賊団のジョリー・ロジャーが描かれた巨大な帆が張られているが、この船の動力は風だけではないらしい。
船に渡された木の板から船内に乗り込み、甲板へを歩を進める。
「ほう。お姫様、今日は随分と格好が違うようだ」
海賊船の船長室の前に佇むゼーヴォルフが俺の方を見て笑みを浮かべる。俺もそれに対して同じように笑みを浮かべ、頭の上の魔法使い帽子を軽く持ち上げた。
船長であるゼーヴォルフが言う通り、俺の姿はイブ姫として振舞っていた頃のそれとは違い、ローブに帽子、その中は旅にも耐えうる簡素で頑丈な素地の服という組み合わせであった。
「こっちが本来の格好なんです」
「口調に加え雰囲気も違うな。まるで別人だ」
「そういう風に思われるようにという、一種の変装ですから」
単純に見た目や印象を変えるのではなくて、別人に成りきるという行為そのものが魂の色を隠す要素となる。
正体がバレると面倒な事態になる俺には必須な事だったのだが、ゼーヴォルフは対して驚いていないようだ。
変装をしていたという事自体が露呈していたわけではないだろうが、イブ姫としての俺にある程度の違和感を抱いていたのかもしれないね。
ちなみに今は魔法を使っているため、他の人に俺の姿は認識されていない。いつものヘーゼルの魔法である。
「シルラーズさんは?」
「船長室の中だ。このゼーヴォルフ海賊団の船、”天罰の獣”号の動力は魔力を用いて進むことが出来るのだが、その動力炉や操作盤の確認作業を頼んでいるのさ」
うちの船員よりも腕利きだからね、とゼーヴォルフがつぶやいた。便利に使っているんだろう、お互いに。
協力関係にあるという事でお互いの利点を最大限に活用する事は作業の効率化に繋がる。それは力量を信頼しているという事でもあるし。
「それで、お姫様。騎士様たちとのお別れは済んだのか?」
「帰ってくると伝えておきましたので、大丈夫です。俺はゼーヴォルフ、貴女の腕前を信用していますし」
だから、これ以上の言葉を重ねる必要はない。これもまた、信頼関係である。
そう言い切ると、ゼーヴォルフが楽し気に口元に手を置いて声を出して笑う。荒々しさの中に上品さを備えたような、変わった笑みだった。
もしかしたら、この人の生まれは結構良い所なのかもしれないね。そもそも言葉に教養がある。
「ふ、ふふ。そうか、なら良い。―――さあ、野郎ども!!!仕事だ仕事だ、キリキリ働け!!」
船全体に届くほどにゼーヴォルフが声を張り上げると、幾つもの滑車が回され、ロープが縦横無尽に駆けまわる。
船から三本伸びたマストが音を立てて、ジョリー・ロジャーが描かれた最も巨大なもの以外の帆も広がり、風を受け止める。
「出航!!!」
「「「オオオオ―――!!!!!!!!」」」
幾つもの声が合わさって、船………”天罰の獣”号が海原へと漕ぎ出す。俺は甲板を取り囲む縁、舷縁に顔を乗せると、港に見慣れた騎士服と絨毯に乗った女の子が見えた。
お互いに手は振らない。だけど、戻ってくるから。そう、意志を込めて彼女たちの眼を見た。
さあ、船旅の始まりだ。元の世界でも船旅というのはしたことがない。いつも通り、この道のりを楽しんでいくとしよう。
***
「お姫様。あまり甲板にいると日に焼けてしまうぞ。日焼けというのはなかなかに厄介だ、特に肌の弱い女性となれば、ね」
「ん。そうですね、分かりました」
まあ俺の身体は日焼けしないというか、出来ないんだけどね。再生しちゃうから。でもそれはそれとしてゼーヴォルフの言葉は有難く受け取っておく。
さて。船が出てから数日が経った。神凪の国というのは本当に遠い所に存在しているため、数日程度ではとてもじゃないが辿り着けない。
でも俺はこうして何も考えずに海を見ているのも好きだし、寝床であるハンモックで揺られているのも悪くない気分なので、この船の旅というのは割と気に入っていた。
「君が酔わない性質で助かったよ」
「そういった、生理的なものに関しての耐性は強いんです」
「そうなのか。それは旅をするには実に良い。少々羨ましさすら感じるね」
「あはは………まあ、女性の旅というのは大変ですよね。陸地でも、海洋でも」
俺の知る世界の中世というのは、女性の旅人というのはなかなか旅がするのも難しかったという。その理由は月のものを始めとした体調の悪化だ。
ゼーヴォルフ自身がこの船旅を行っているように、女性の旅人というのもいないわけではなかったけどね。
当然、ゼーヴォルフは少数派であり、この世界でも女性の旅人というのは多くはない。でも、全くいないわけでもない。レクラムちゃんだって足を不自由にする前は学徒として旅をしていたのだし。
ちなみに俺はそういう月のあれとかも関係ありません。人ではない肉体を持つため、見かけは人でも構造は人とは違うのだろう。
「さて。私たちの船はそろそろ大陸の近海を抜ける。ここから先は読んで字のごとく魔境だ。神凪の国、となれば我々の天敵がいる海域すら通らねばならない。その時には力を借りるよ、お姫様」
「任せてください。契約はちゃんと守りますよ。………あと、そろそろお姫様っていうのやめません?」
「契約で私たちは君を姫として扱うと決めているのさ、口調や見かけが変わったくらいで扱いは変えられない」
「………俺が良いと言っても?」
「当然だ」
ならしょうがないか。肩をすくめると、ゼーヴォルフが俺の頭を軽く撫でてから船の周囲を見渡した。
幸いにして今日も晴天。船が出てから悪天候に見舞われることもなく旅が続いていたわけだが―――。
「そろそろ嵐が来るな」
「やはりそうですか」
ゼーヴォルフは勘で。そして俺は嗅覚で。荒れ狂う海の姿を予想した。
「一応ですが、嵐をはねのける魔法なんかもありますよ」
「不要だ。並の嵐ではこの天罰の獣号は止められん。我々の天敵は、獣の歩みすら蕩けさせる声だけさ」
「頼もしいです。でも、必要とあれば呼んでくださいね。力を貸しますから」
甲板に落ちる影の中から魔法使い帽子を取り出すと、頭に被る。そして手を差し伸べてエスコートしてくれているゼーヴォルフの手を取ると、船長室へと。
丁寧に磨かれた真鍮の取っ手を掴んで中に入る。もう何度も入っている船長室は、相変わらず葉巻と紙とインクの匂いが満ちていた。
大きな一枚板の机の上には大陸近海及び神凪の国周辺に至るまでの海域図が置かれ、コンパスや羅針盤が置かれている。まさにこの時代の海賊の生活だ。ちょっとだけテンション上がりますよね。
ちなみに。シルラーズさんは基本的にこの船長室にいることが多い。今日も椅子に座って寛いでいた。
「シルラーズ、お前はお姫様を見習ってたまには外に出たらどうだ」
「うん?遠慮しておこう。私はマツリ君とは違って肉体の自浄作用や不変性は持たないんだ。潮風を浴びて不快な気持ちになるのは精神衛生上の効率が悪い」
「ならば毎日外に出て船を動かしている私や手下どもはどうなんだ」
「君たちは海に憑りつかれた者共だろう?」
ゼーヴォルフが全くと呆れたような溜息を吐いた。とはいえ、だ。シルラーズさんは決して遊んでいるわけではない。
―――船乗りたちにとっての天敵、聞こえたらその時点で終わりの声。その予兆を常に探っている。
俺の感覚でも声は捉えられるけれど、二人体制の方が確実だからね。魔境が近づいている現在、いつ天敵がやってきてもおかしくないのだから。
警戒心は持つべきだろう、うん。さて、そんなお二人を置いて俺は船長室の奥にある部屋へと入る。ここはゼーヴォルフの寝室なのだが、お姫様扱いされている俺は船長であるゼーヴォルフを差し置いてここを一人で使わせてもらっている。
いえ、断ったんですけどね?ゼーヴォルフ自ら使えと威圧してきたので流石に屈しました。まあ、それはさておき。
この海賊船のベッドであるハンモックに身体を預けると、影の中にずっと潜んでいる水蓮が俺に語り掛けてきた。
「マツリ」
「どうしたの、水蓮?」
「………気を付けろ。海洋が騒めいている。嵐とはまた違う脅威が付近にあるようだ」
「水蓮がそういうほどの、か」
強力なあちらさんである水蓮が意識を引き締める脅威。この船旅、何事もなく終わるとも思ってはいなかったけれど、もう少しだけ旅行気分でいたかったかなぁ。
………来るのであればしょうがない、か。仕事の時間が始まるという事だろう。魔法使いとしての力、きちんと役立てないとね。