怪異の宿
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あっという間に日は暮れて。月が揺蕩う夜の時間がやってきた。伸びをしながら宿の前で空気を肺に取り込む。
この世界の夜の空気は基本的には綺麗なものだけれど、それは国家の大都市のように下水の処理能力を超えるほどの住人がいないことの裏返しでもある。
地面が汚物塗れになっていないというのは衛生的にはいい事だけどね。というか人が増えすぎるのって別にいい事ではないんだけどね。その辺りは国と人と世界のバランスだ。
「二十二時五十分。あと少しで二十三時、怪異にとっての夜の時間か。………従業員の話によれば時刻の切り替わりと同時に随分と事件が起こるらしいが、随分と時間に正確だな、怪異というやつは」
レクラムちゃんが月明かりを頼りに懐中時計を見て、そうぼやく。ちなみにレクラムちゃんの乗り物は俺が作った魔法の絨毯だ。車椅子だと流石に危ないからね。
あるものは有効活用しておきましょうということで、うん。
「時間に正確な怪異ということは、怪異が生まれた原因に時間が関わっているのだろうね。深い理由なのか、意識の片隅程度なのはか分からないが」
「それだけでも変わるものなのか」
「当然だ、人から生まれた場合は特にそういった形質が現れやすい。ケースによっては飼い猫が原因の場合もあったがね」
「あまりその辺りは深く考えても無駄ではないかしら?核心に触れているかも分からないのですから」
「おい、雑談すんのはいいけど後五分切ったぞ。中入らなくていいのか」
「あら。急がないといけませんね」
キール君に促されて俺たちは宿の入り口から室内へ足を踏み入れる。
ちなみにフランダール会長は一緒にはいかず、宿の外で待機している。緊急時、俺達の力ではどうしようもないものが中にいた場合に、安全に脱出するための仕掛けを預けているためである。
ああいうのは信用できる人に渡さないとね。さて。
「キール君かレクラムちゃん、どちらか私と手を繋ぎましょう。それからミールも」
「はぁ………?!いや、なんでだよ!!」
「危険だからです。私かシルラーズと手を繋がなければ最悪、犠牲者の仲間入りです」
「………マジかよ。まあいいや、これでいいのか」
キール君の手が俺の手を掴む。あら、なんというか―――男の子の手をしているなぁ。
大きくてごつごつしている。昔の俺もこういう手だったのだろうか。いや現代世界でのほほんと生きていたのでここまで職人のような手はしていなかった気がする。
現代って平和だったんだなぁ。あの時代の普通の人間なら、生きているだけで手が骨ばるような事態にはならなかった筈だから。
「お、おい。手を揉むな」
「あ。ふふ、ごめんなさい」
「イブ姫、左手貰うぞ」
「どうぞ、ミール」
………じぃっとミールちゃんがキール君の方を見ていた。
「あ?なんだよ」
「イブ姫はお前にやらん。私の妹のものだ」
「あの、ミール。私は誰のものでもありませんが………」
「別に要らねぇよ」
「キール君?それはそれで酷いですね」
なんで話の流れで要らない子扱いされているんでしょうか。俺だって悲しむときはあるんだよ?
「キールがあっちに行ったか。では私はシルラーズ学院長とだな」
「うむ、任せておけ。ではレディ、お手を拝借」
「そいつ両刀だから注意するんだぞ、レクラム」
「おいおい、私を何だと思っているんだ。時と場所は弁えている」
シルラーズさんの抗議の声をガン無視するミールちゃん。俺も時と場所弁えているっていう言葉に関してはちょっと疑いの余地あるかもなぁ。
多分、本気を出せばこの宿の怪異じゃシルラーズさんにはどうやっても勝てないから。怪異が弱いわけじゃなくて、シルラーズさんがおかしいのである。
代わりにこの宿が消し炭になるのでそうならないように俺が出張ってきているんだけどね。あれ?よく考えたらこれ魔法使いと魔術師の立場逆じゃない?
ま、いいか。
「あと十秒か」
小さな音を響かせる秒針が二十三時へ到達することを知らせる。カチ、カチ、カチ―――そう、音が鳴って。
「………ああ。嫌な臭いがしますね」
嗅覚に強烈な臭気が押し寄せたその瞬間、宿の風景が裏返った。
***
「異界化と来ましたか。………皆さん、無事ですか?」
「げほっ、なんだ、何が起こったんだ?」
「黒い靄のような物が宿の内側に満ちた気がしたな」
「それはミールの体感、いえ。第六感がそう認識しただけでしょう。実際は宿全体に浸透した怪異の魔力による、内部空間の変容ですわ。外と中は隔絶されて、外から入ることは出来ても中から出ることは出来ない―――今はそういう状況です」
「おい、それってかなりやばいよなぁおい。つうかさ、なに、この空間。滅茶苦茶気持ち悪いんだけど」
キール君がそういうのも仕方がない。異界化した宿の内部は、お世辞にもいい場所とはいいがたい風景に変容していた。
きちんとお金をかけて揃えられた調度品で飾られた綺麗なロビーは、肉片や血管で埋めつくされた悍ましい光景へ。うーん、こういう風景ばかり出てくるパソコンのゲームがあった気がするなぁ。
シンプルに言えばグロテスク。脳漿が溢れた大量のゾンビが歩いていても違和感がない程度に、周囲の風景は生々しい。
「イブ姫、学院長とレクラムの姿がないぞ」
「分断されたのでしょうね。この宿の中は怪異のお腹の中のようなものですから。自在に位置関係を変えるなんてお手のものです」
「だから宿の構造憶えていても無駄だって言ってたのか、お前」
「ええ。あそこに見える宿の出口をくぐっても、外に出れないということに金貨一枚賭けても良いですわ」
「負けが確定してる賭けなんぞ誰が手を出すかっつの。………で、どうすんだよ、俺達」
勿論、やることは変わっていない。というかこうなるのは予測出来ていたし。だからこそ、俺かシルラーズさんと手を繋いでおこうって話になったんだから。
「怪異を祓います。さあ、楽しい冒険の始まりですよ。ここから襲い来るたくさんの困難を打ち払い、元凶を倒すのです」
「困難?まだなんか来るのか?」
「ええ、当たり前ですわ―――ミール、護衛よろしくね」
「ああ。任され………たッ!!!」
甲高い音と共に剣閃が走る。
俺達の背後の壁が膨れ上がり、飛び出してきた名状しがたい触手のようなものをミールちゃんが一瞬で切り伏せる。おお、強いのは分かっていたけれど本当にすごいんだなぁ、ミールちゃん。
剣先どころか鞘から抜いたところすら見えなかったよね。ちなみに聖別のようなものがしてあるあの剣で斬られたため、触手はそのまま形を失って消え失せた。
「あんなのが出てくんの?やべぇな、早く帰りたいわ」
「大丈夫です。私とミールが守りますもの」
「………女の子に守られる男ってのも何だかなぁ」
俺のことを嫌いな魔法使いじゃなくて、女の子って認識してくれているあたり、大分仲良くなったよね、俺達。
まあ声に出すと照れちゃうだろうから、微笑むだけで済ませるのだが。
さて。如何に無双のミールちゃんがいたとしても、このまま敵を切り伏せ続けたのでは無駄に夜が明けるだけだ。
本丸、というか本体を見つけ出し、祓うのは俺の仕事である。己の影に手を入れると、波紋が立った。
その中から魔法使いのローブと杖を取り出し、帽子を被る。そして、影の中のもう一人に声をかけた。
「水蓮。手伝ってくださいな」
「………いいだろう。ここにいるのは私も好むところではないからな」
水音を立てて現れるのは本来の身体である、蹄の代わりに水掻きをもつ純白の白馬………獰猛なる水棲馬アハ・イシカの姿で現れた水蓮だった。
うん、役者はそろったというべきかな?レクラムちゃんの方はシルラーズさんがいるから何にも問題なし。俺達は怪異本体を追いかけるとしよう。