夜を待つ
「何が書いてあるのかしら、シルラーズ?」
「なに、大したものではない。この宿に満ちる魔力量と異界化している可能性が高い個所のピックアップ、推定される怪異の上限等級と現時点の等級。このままこの宿を運営していた場合、従業員がどのようになるか等々さ」
「………この場所の魔力量、高いですものね」
魔力は世界に満ちているのが当たり前であることは確かだ。けれど、だからと言って濃ければよいという訳じゃない。
例えば。普通の人間は妖精の森や翠蓋の森で暮らすことは不可能に近かったりする。それはあちらさんや旧き龍の一柱が存在することによって高まった魔力濃度が、只の人にとっては猛毒として作用するからである。
魔力が世界から枯渇することは生命の繁栄に異常を齎すけれど、多すぎる魔力は生命の維持に致命的な傷を与える。自然から逸脱し始めている人間という種にとっては特に、ね。
植物からしてみればそこまで害にはならないんだけど。いや変な植物は増えるけどね。でかかったり顔ついてたり自立歩行したり。
「怪異に関わらず、人体に強い影響………肉体の変質………?!」
「それはそう遠くない結末だ。濃密な魔力に晒され続けるのは汚染物質に触れているのと同じことだからね」
「なぁに、そうかしこまる必要なんてないぜ?俺たちは怪異を祓ったからって言って見返りを求めちゃいないんだ。そういう役割ってだけだからなぁ」
「ええと………役割、とは?」
「言葉の通りだぜ?ま、世直しの旅―――ってのにも近いかもな」
うーん、間違ってはいないけど正しくもないですよねそれ………まあ、押しつけの善意は受け入れられないことが多い。人間ってやつはどうしても、他人を疑わずにはいられない生き物だからね。
そういう場合、こっちの都合で勝手にあなたを助けます、とか。そういう風にしてしまった方がいい場合もあるのだ。
フランダール会長の含みある言い回しはそういう風に相手に思わせるためのものである。まあ、実際に言葉にしてはいないから勝手に勘違いさせてるともいうんだけれど。
「そういう訳で報酬は不要だ。ああ、だが怪異を祓う過程で出てきた呪物関連は回収させて貰おう。ここに置いていくとまた怪異が現れることもあるのでね」
「呪物………」
「管理をするならば私が学院長を務めるアストラル学院が最も適していると思うがね。まあ、そもそも呪物が現れるかも不明だが」
魔術師や魔法使いが秘術を扱う際、その媒介や秘術の効果を高めるために使うのが触媒。呪物は広義で見れば、その触媒の一つに分類される。
俺が魔法を使う際に使用する薬草も分類は触媒だからね。ただ単に触媒と定義すると本当に広い範囲になってしまうのだ。
呪物は大抵、呪いをかける際に使うことが多い。つまりは黒魔術系統というのだろうか。言葉の通り、呪物というのは人の恨みや人に害為す怪物の肉体の一部、魔神―――そして呪われた道具等々であることが多い。
そう言ったものだから、抵抗手段を持たない一般人が呪物を手にすることはあまり好ましい事じゃないのだ。下手をすれば死にますので。
そもそも怪異を呼び寄せやすいし。
「アストラル学院までの保管と運搬はフランダール商会が受け持つ。勿論、金なんて貰わねぇ。どうだい?」
「決断早い方がいい。ここは街の中でも地脈の影響が強くてね。この場所に怪異が巣食ったままでは、いずれ街そのものに害を及ぼしかねないのだ」
「………わ、分かりました」
うん、これ圧迫面接ですよね。事実も混ざっているのがまたいやらしいというか交渉上手というべきか。
ともかく。二人の交渉に屈した支配人さんがそう言ったところで、流れるようにキール君が契約書類を支配人さんの前に置く。
おや………?よく見るとあれ、キール君の手書きだ。交渉の内容を聞きながら契約の文章を作っていたのか。文字がとても綺麗だったので一瞬気が付かなかった。
支配人さんの横に立ったキール君が契約内容を懇切丁寧に説明している。文書による契約の解説までできるのか、流石商人の卵。
写本師であるレクラムちゃんが珍しいと言われるように、決してこの世界の識字率は高くはない。それこそ貴族とか王族、豪商の類じゃなければ文字を書くのはおろか、読むことすら難しい場合だってある。
キール君、優秀なんだなぁ。あんなに綺麗な字、俺には書けないし。千夜の魔女の肉体に成り代わったことで文字の読み書きは自動的に出来るようになったけど、それだけだ。丁寧に書いても俺の字はそこまで上手くはない。
勿論、商人の契約に使えるようなものではない。うん、尊敬する。
「………あ?なんだよ、イブ姫」
「いいえ。綺麗な文字を書くなぁ、と。美しい字を書ける人は善い人ですから」
「意味わかんねぇ………まあいいや。そういう訳で支配人さん、ここに押印してくれ。親指でいい」
朱肉を取り出し、支配人さんに差し出すとまず契約書にスタンプ。次いで、支配人さんが直筆した自身の名前と今日の日付が書かれた紙を取り出すとそちらにもスタンプ。
「うっし、これで契約完了だな。あとはこっちの魔法使い方の出番だ、まあ椅子にふんぞり返って座ってな」
「………乗せられましたか。フランダール商会、流石に口が巧い」
「商売も巧いぜ、俺たちはな」
フランダール会長が支配人さんの肩を数度叩くと、立ち上がる。あっという間に契約を勝ち取ってしまった。
本来は魔術分野の交渉事なんて畑違いな筈なのに。この時代に成りあがった商人の機転っていうのは本当に侮れないなぁ。
………さて、フランダール会長とキール君、そしてシルラーズさんに頑張って貰ったのだ。ここからは俺がキッチリ仕事をする番だよね。
腰を掛けていたソファーから立ち上がると支配人さんの前に立って、顔を近づける。
「ご安心を。悪い結末には致しませんわ。もう悪夢に怯える事の無いよう、全身全霊を尽くします」
「あ―――え、ええ………」
「ふふ。それでは、また夜に訪問させて頂きます」
するりと垂れた白い髪を手で払いつつ、姿勢を戻す。
「シルラーズ………は心配しなくていいわね。レクラム、キール君。心の準備はよろしいかしら?」
「え、つうか俺も行くのかよ。まぁいいけどよ………俺はいつでも」
「準備?今更怯えるものか。それほど繊細な心をしていない」
「ふふ。それなら結構です。では一応、宿の構造を憶えておくように」
ま、意味ないと思うけどね。一応だよ、一応。
踵を鳴らして宿から出る。怪異にとっての夜は二十三時だ、その少し前までは営業の邪魔にならないように外に出ていないとだからね。
さあ。魔法使いのお仕事の始まりだ。