一方あちらは
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「にしても、だ。若い連中は仲良くやってますかねぇ」
「さてな。まあイブ姫がいるのだ、どうしようもない事態にはならないだろう。それとフランダール会長。私も一応年齢的には若い部類に入ると思うんだが」
「こりゃ失敬、けど世界最高と名高い魔術師に対して若い子っつう扱いするのは無理な話だろうさ」
俺の言葉に肩をすくめる眼鏡の美女。
アストラル学院の長、龍すら殺したという伝説を持つ、世界最高峰の実力を持つ魔術師―――シルラーズ学院長。
少女の時分より幾つもの伝説を持ち、世界を放浪した後にカーヴィラの街に辿り着いた彼女は、一応まだ二十代であるという。確かにそれならば若いと定義してもよさそうなものだが、積み重ねてきた経験と実績が若者扱いを許さないのだ。
と、まあそのようなことはさておいて。そんな美女を引き連れての散歩も、夜な夜な怪異が這いずり回っているという呪われた宿の中では雰囲気も台無しである。
………手早く許可を貰った後、俺たちは宿の内部の確認に移っていた。宿の中で働く従業員への聞き込みが主な仕事である。
「それよりも、だ。どうだい、魔術師さんの目から見てこの宿はやっぱりおかしいのかい?」
「異常なのは間違いないが、後天的なものだ。受肉した怪異に他の怪異が引き寄せられているのだろう。だが、そもそもとしてこの地には、特別怪異が発生しやすいと言った特異条件は見受けられない」
卵が先か、鶏が先か。今回は他所からやってきた鶏が原因で他の怪異とやらも活性化しているってことだろう。
「退治は難しいんですかい?」
「ふむ。イブ姫が危惧していた通り、通常の怪異ではないのは分かる。力技で突破もできなくはないが、この宿はこの街から消えるだろう」
「………何をするつもりで?」
「丸ごと魔術の炎で燃やすのさ。受肉していようがしていまいが、そしてどこぞに隠れていようが何もかもを焼き尽くす神秘の炎で包んでしまえば関係はない」
「物騒なこと言うじゃないの。それ、冗談じゃねぇんだろう?」
「勿論だとも」
石造りの巨大な建造物を灰すら残さず消してしまえる………他の人間が言えば眉唾物だが、シルラーズ学院長なら恐らくは出来るのだろう。
そして、彼女が護衛しているイブ姫もまた、簡単にやって見せることが出来る筈だ。魔法使いっていうのはそれだけ膨大な力を持っている。
「だが、イブ姫の意向でね。残念ながら緊急事態でもない限りは、この宿を消し炭にすることは出来ないのだ。面倒なものだよ」
「それは、イブ姫の動きを止めることが出来ないってことですかい」
「それもあるな。それもあるが、まず説教される」
「はあ。説教?」
「彼女は心優しいからな………さて」
ああ、道理で怪異を祓うというのに謝礼の話を一切しないと思った。商人から見れば不安に思うほどのお人よし、それがイブ姫という人種なのだろう。
それとも、魔法使いという存在がそういう手合いなのか。
生きるのに苦労しそうだなぁと考えていると、シルラーズ学院長が手に持っていた札を宿の廊下の壁に貼り付けた。
この札はシルラーズ学院長の手によって宿の中に無数に張り付けられており、今張り付けたものが最後の札である。
魔術としては有名なものであるルーン魔術かと思ったが、札に描かれているのは図形と油彩画を混ぜたような不思議な物であり、魔術に明るくない人間が考えてもよく分からない系統のものであることは理解できた。
「で、結局それはなんですかい?」
「布石というやつさ。後で役に立つ可能性がある。どこで耳やら目が光っているか分からないため、詳しくは言えないがね」
「相手、怪異なんでしょう?そんな頭ありますかねぇ」
「場合によっては怪異でも高度な知性を持ち、人を効率よく襲うこともある。正体不明の状態が続いている以上は、気を付けるに越したことはないさ」
「知性を獲得する怪異………出会いたくないもんですな」
魔力を扱う事の出来ない一般人にとっては、どのようなものであれ怪異そのものが致命的でもあるのだが。秘術を扱うものに溢れるこの世界では、例えただの占い師であっても本物であれば多くの隊商が助けを求めに集まる。
その多くは旅の最中の安全を確保するための物なのだが、そのまま高い金をかけて魔除けの品を買い付ける隊商もあるのは、それだけ恐れられている証拠だ。
呪いも妖精も、そして怪異も。多くの人間にとって多くの状況で大差はない。見えず、良く分からないまま発生する現象でしかないからだ。
「今この場でできることはこれくらいだろう。一度外に出ようか、フランダール会長」
唇に火の着いていない煙草を咥えたシルラーズ学院長がそう提案し、頷く。宿の受付に戻り、更にそこを通過して宿の外まで出ると、腕をぐるりと回した。
緊張かどうか理由は不明だが、随分と肩が重い。骨がぽきぽきと鳴る音を響かせると、それから近くの喫茶店のオープンテラスに場所を移した。自身も煙草を咥え、火を着けると一呼吸して煙を吐きだす。
「キールの言ってた通り、本当に昼間は怪異は影も形もないらしいですな」
「ああ。建屋全体を歩き回り精査してみたが、どこも均一な反応を示していた。全体的に怪異の気配が漂ってはいるものの、飛びぬけて異常な場所というのはない。確かに一見すれば何事もないように見えるだろう」
「その一方で夜に宿に残っていたら殆ど確実に誰かは消える、と。夜といっても時間帯的には二十三時以降らしいですがね」
「宿の中の怪異にとっての夜がその辺りなのだろう。そして朝になれば消えるが、その朝というのは大体三時くらいだと思われる。怪異が活性化するのはその間の四時間程度だけ、という訳だな」
「………随分と規則的に動くもんですなぁ」
「同感だよ。不思議というよりはいっそ奇妙な点といっていいだろうな」
シルラーズ学院長が珈琲を口に運ぶと、それと同時に小さな蝶が揺れながら近づいてくるのが見えた。いや、これは蝶といっていいのか………形状こそは蝶のそれだが、その肉体を構成しているのは植物であった。
その蝶は俺たちが座る席の上に留まると、どこか覚えのある香りを放出しながら一枚のやや大きな葉っぱへとその姿を変える。
葉の上には文字が書かれており、それを読んだシルラーズ学院長が情報を共有してくれる。
「イブ姫からだ。ふむ、こちらに向かっているらしい。新しい同行者が増えているようだが」
「はい?同行者ってなんですかい」
「さてね。どこかで人を誑し込んだのかもしれん。彼女は無自覚に人を寄せ付けるところがある」
「あー、まあ。そんな気配は少し出てはいますわな。というか返信はいいんですかい?」
「この葉を頼りに見つけてくれるだろうさ。私たちはこのままじっとしていればいい」
「なんというか、魔法使いってのは便利なんですなぁ」
「彼女は特に、ね。あれでまだ成長途上というのだからな。いや、途上というよりは意識の差か」
煙を上げない煙草が揺れる。仕事を受けた際にイブ姫に対しての情報を最低限貰ってはいるが、正直に言えばあの少女には謎が多い。
魔法使いというのはこの時代、すでに随分と数を減らしている存在である。新しい魔法使いはなかなか誕生せず、古くから生きるものも徐々にこの世を去りつつある。
いくらアストラル学院であってもその流れの中で出自不明の魔法使いを秘密裏に抱え込むなど本来は不可能なはずだ。強力な力を持つからこそ、魔法使いは現世に関われば必ず存在が露呈する。
妖精の森や翠蓋の森の中で隠居していたものが外に出てきたという可能性もあるが、それにしては彼女はある程度以上に俗世に詳しい。
………正体不明の者は商人としては警戒するべきだ。個人的な感情としては、人を肯定している彼女に対し悪い印象は持っていないが。
「フランダール会長。君は君の仕事をしてくれればそれでいい。警戒も仕事の裡だ」
「………こういうのは、いい性分ではないんですがね」
「魔術師の私よりは真っ当な生き方だよ」
珈琲の器をソーサーに戻すシルラーズ学院長。そして、視線が動いた。
イブ姫がやってきたのだ。
―――さて、休憩は終わりだ。仕事をしますかね。