噂の宿へ
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「成程。ここがその怪異の出るという宿ですか」
飛んで翌日。普通の人間だったころはデスクトップPCの前で伏せって寝落ちすることも多々あった俺からすれば全然問題なく、寧ろ寝心地のよかったベッドから立ち上がり、髪やら服やらの身支度を済ませた俺たちは、フランダール会長やキール君も連れて件の宿へとやってきていた。
防備としての鉄柵に囲われているのは、赤黒い煉瓦作りの巨大な建物だ。階数としては三階建てだろう、幾つもの客室を持つその宿はキール君の言う通り街の小高い丘の上という好立地に立っており、街を一望できる場所にあった。
この街、グレミアの城壁はそこまで高いものではない。精々が勝手に人が侵入してくるのを防止できる程度の高さだ。故に、こうして高い位置にあるこの宿の三階の部屋ならば、街の外の風景すら見ることが出来るだろう。確かにキール君の言う通り、景観のいい位置に存在している。
けれど、鼻を小さく動かせば、匂うのは魔力の気配。それもかなり濁った部類のものだ。古びてはいるが血の匂いすらする以上、怪異は間違いなくいるだろうね。しかし、だ。
「おかしいですね。騎士階級の怪異がいる、という噂の割に匂いが薄いようです」
「同感だな。気配も魔力も薄い………ふむ。強硬偵察は辞めたほうがいいだろう。分からないことが多いからな」
シルラーズさんも同じような感想を抱いたようだ。
この気配ならちょっとした心霊スポットと同様だ。何人も死人が出ているという場所には不釣り合いである。
閉ざされた鉄格子の門扉に触れる。気配を隠す結界のようなものは張られていない。
「………あら?」
少し力を加えれば、門扉が小さく金属音を上げながら開いてしまった。
鍵が閉まっていないのか?………いや、違う。
「あの。フランダール会長、キール君。この宿、普通に働いている人がいるように見えるのですが」
「みてぇだなー。キール、訳言え」
「………あー、なんつうか。昼間は死人が出てないらしい」
「だから、昼間なら働ける、と?いえいえ………危険ですよ、今すぐ止めさせなければ」
夜に比べて昼間は怪異の活動は緩やかになるとはいえ、活動しなくなるわけじゃないのだ。
ましてや肉体を得ている以上、自在に消えたりはしない―――もし、出くわせば絶対に襲われる。
そうして人を襲い続け、更に力を蓄えればやがては昼間であっても暴れまわり始めるだろう。最早あの宿で労働すること自体が危険行為なのだ。
「待て待て、イブ姫。ありゃあ従業員も働きたくて働いてるわけじゃねぇだろ………宿で働かねぇと食い扶持が稼げねぇから仕方なくってやつだろうな」
「………労働組合がないの、本当に厄介ですね。こういう場合ギルドはどうしているのですか」
俺の質問にキール君がため息交じりに答える。
「都市によってはギルドが無い場合もあんだよ。無い方がいい場合もな」
「では、グレミアにはないのですね?」
「キールの言う通り、ギルドは閉鎖的な組織だからなぁ。歓迎されない場合もあるんだわ。うちのフランダール商会だってギルドに所属してねぇぜ?ま、カーヴィラにはギルドがないってのが大きいが」
中世の発達と共に成立したギルドという組織は、元は組織だっての相互扶助を目的とするものだった。けれど、俺の世界だと十二世紀の商業ルネサンスによって遠距離間での貿易が発達するとともに、その遠隔地商人が定住し始めたことで商人同士の組織が発生した。
これが商人ギルドというやつだ。この商人ギルドは販路やら価格やら製造やらを独占し、市政運営すらも想いのままにしてみせるという強権っぷりだったが、そのうちこの商人ギルドの傘下であった手工業者たちが反発、手工業ギルドという組織を作り上げる。
この二大組織はツンフト闘争と呼ばれる争いを経て、やがて手工業ギルドの構成員達も市政運営にも関われるようになった。
ギルドとは本来、こういうモノを指すのである。なお、時代が進むごとにギルドは閉鎖的だとか特別扱いされているとかで批判が集まり、やがて消滅する。現代と呼ばれる時代にギルドがないのはそのためだ。まあ、ギルドがあると自由競争とか行われないからね。仕方ないよね。
さて。それよりも重要な問題がある。このグレミアの街に相互扶助組織がないという事は、この数か月の間、街一番とすら言われていた宿は殆どお金を稼げていないという訳になる。
如何に昼間は働ける、といってもそもそも一泊すれば死ぬかもしれない宿に泊まるお客さんは少ないだろう。居ても、俺達みたいな旅人だけで、旅人が必ずしもいい宿に泊まるという訳でもない。そして、払う賃金がなくなれば宿からクビを言い渡されるか、無賃金で労働させられるかのどちらかだろう。
………命の危険がある職場で、給料もない環境で働かされるっていうのは、ブラックすぎでしょうよ。
「シルラーズ。意外な理由で時間制限が生まれてしまったわ。早期解決が求められるわね」
「………全ての命を抱え込むのは辞めたほうがいいと思うがね」
「あら。手の中に拾い集められる程度と弁えているつもりよ?少しくらい無理して手を伸ばすかもしれないけれど、その場合はみんなが助けてくれるのでしょう?」
「私たちが見捨てられないのを良いことに暴れていると、適当なタイミングで梯子外すからな、イブ姫」
「それは………困りますね、ミール。気を付けるわ」
声音がガチなんですよ。いや、危険な目に合わせるってことじゃないのは分かるけどね。
軽く手を叩き、音を鳴らす。そして、門扉の前でくるりと回り、皆の方に振り返った。
「シルラーズ、それからフランダール会長。お二人は宿の従業員の方から話を聞いて貰えますか?ついでに事件解決のお手伝いをするとアポを取っておいてもらえれば助かります」
「あいよ。姫さん方は?」
「私とミール、そしてキール君は街の人たちから聞き込みです。どうやら、魔力の質的にただの怪異と割り切れるものでもなさそうなので」
そう、きっと何か俺たちの予想外の種がある。
聞き込みで全てがわかるとは思わないけれど、何も知らずに飛び込んで誰かが怪我をするよりは、こうして少しでも予測を立ててから向かった方が安全だ。
大抵の命は喪ったら還らない。小さな怪我だって命に係わる可能性だってあるのだから、慎重さはある程度持っておくべきである。
そして、こうして堅実な準備をすることこそが、早期解決への近道だ。急がば回れである。
回ることが絶対の正解とは言わないけどね、まあきっと茨の道を進むよりは楽だろう。
「なんで俺と頭取が別行動なんだよ」
「阿保かキール。俺もお前も、怪異相手じゃ何も出来ねぇだろ?んで、シルラーズ学院長か騎士の嬢ちゃんはどっちか必ず、イブ姫の見張り………じゃねぇや。護衛に着く必要がある」
「あの、いま見張りって言いませんでした?」
「その上で魔力やらを感知できるのは、シルラーズ学院長とイブ姫しかいねぇ。だから二人は別れる必要がある。俺とお前が一緒になっちまったら負荷も集中するわ人数差も酷くなるだろうが。あと街中行くなら昨日歩きまわってるお前の方が速い」
「………あの、見張りって………」
俺の言葉はスルーされまして。
一応は納得した様子のキール君を見て、フランダール会長が俺の方にウィンクして来ていた。ああ、仲を深めろってことですね、はい。
そのためにこの班割にしたっていうのもあったのだが、それをフランダール会長は即座に理解してキール君を言い包めてくれたらしい。とても助かります。
「それじゃあ、よろしくお願いしますね、キール君」
「………ち、仕方なくだぞ」
「あ”?」
「ミール落ち着いて」
―――ちょっと大変そうな面子だけれど、情報収集頑張ると致しましょう!!