スターズ
………万有引力の魔女。
この世界、天体、即ち宇宙。その全てに存在しているという、物体が物体を引き寄せる力。
地球ではアイザック・ニュートンが林檎の木から発見したことで有名だよね。
星に満ちる重力もまた、この万有引力の力の一種類でしかない。地球上に置いて働く万有引力、つまり地球が持つ引力のことを重力と呼んでいるだけでしかないのである。
他にも、潮の満ち引きは月が持つ引力による物。恒星の周りを惑星が回るのも同じように。そして遥か銀河の中央でも、その法則は成り立つ。
ああ、まあ。地球の重力はより正確にいうならば、引力と遠心力の合算なんだけどね。どちらにせよ重さを含めた引き寄せ合う力を操るとなれば、それは。
「うん、こんにちは。―――あはは、君は星の支配者といっても過言ではなさそうだね、スターズ」
「まさか。たかだが星の持つ引く力程度、操れたもので何が出来るものでしょう。少なくとも、永遠を冠した千の夜の前では重力の鎖も天体の質量も、夢幻と同義でしたよ」
「………純然たる世界に満ちる、事実として存在する力なのに?」
「あの人の前では全ては幻想。現実も真実も何一つ意味など持てません」
「そっか。それは」
どうやら永遠だけではなさそうだね、全盛期の千夜さんというものは。
「それはともかく。俺はどうして呼ばれたのか、聞いてもいいかな」
うん、本題に入ろう。今は滅びし古の魔女の話をしても………楽しいけれど、意味はない。
物語へと変じ、語られ尽くされた詩編が一つだ。目の前の大魔女がその真実を知るものだとしても、俺はその真実のみに興味があるわけでは無い。
見るべきもの、知るべきものは己の足で見つけるべきで、そのうえで何を思うかも勿論、自分の意思を軸にするべきなのだから。
「そう、ですね」
潤みを帯びる唇に手を当て、それと同時にスターズの髪がさらに浮き上がる。
恐ろしく長い髪は決して地面の上を引き摺られるようなことはなく、地を這う根とは分かたれて空を進んだ。
彼女自身も地面を滑るように移動するけれど、それは彼女が持つ権能故だろう。なにせ、この星の重力ですらスターズの掌の上にあるのだから、その重みを打ち消すことだって泡沫を指先から吹き飛ばすようなものである。
そんな髪を引き連れて、彼女は俺に近づいた。
指先が伸び、頬に触れる………ひんやりとした手の感触が両頬を覆った。
「単純なことです。興味がありました―――あの、千夜の魔女の肉体を持つ者に」
「それは魔女として?」
「いいえ。遠く離れた妹として。私はあの時のあの人を、孤独にした側のものですから。小さな悔恨棘一つ―――それくらいは残っているのです」
儚げに瞳が細められた。
法則より生まれ落ちた魔女たちは、実際に血縁関係を持つことは少ない。なにせ星の落とし子である。
けれど、というよりは故に、かな?
魔女は近しくして生まれた存在を、姉妹として扱うのだ。万有引力―――宇宙に満ちる始原の力の一つ。ならば、確かに。
最も早く生まれたという千の夜の魔女を姉として見るのも頷けた。
「それはよくないね。棘は長く刺されば腐らせるもの。大地も木の根も、獣の肉も」
「ええ。よくありません。なので………写し見たる貴女に会いたかったのです」
「俺は君の姉にはなれないよ」
「望んでいませんとも。ただ」
一息が吐かれた。
呼気には自然の香りを纏う彼女。
「ただ………今度は、知りたいと、出会いたいと思ったのですよ。敵対者では無く、近しきものとして」
「敵として立ったことに後悔を持ってる?」
「世界の守護者として在ったことは魔女としては誇りです」
魔女としては、かぁ。
尻尾のようにスターズの髪が揺れ動く。
くるりと巻き付き、それは俺の足首を優しく包んだ。
「………意外と、意地っ張りだねぇ、お前は。というか、難しく考えすぎ」
濡羽色の髪に手を伸ばした。そして優しく、それを撫でる。
「一つ。俺は俺だ、色々あって千夜さんの肉体を持ってはいるけれど、元男のマツリという半分ちょっと人間っていうだけの存在」
「え」
「なんだいツァイト、お前気が付いてなかったのか。魂の色を見るのはまだまだ苦手なようだね」
「そんな事を言われましても………だって、えぇ………」
「………溢れ出る男らしさに気が付いてくれると嬉しいなぁ」
おっと、話が飛んだ。
「二つ。俺は知識はあっても記憶はない。あくまでも別人だ。知識だって分不相応なもので、自在に扱えるとは到底言えない」
「そうです、ね。継承者ではありますが―――当人ではない」
「うん。だからね、俺は千夜の魔女そのものではないんだよ」
この世界において限りなく近い存在である、とは言えるけど、でも。
うん。別人だよ、俺と千夜さんは。
「別人なんだから―――ほら、簡単。千夜さんのしがらみとか感情は置いといて、ただ手を差し出せばそれでいい」
空いた手をスターズの手に重ねる。
「今世において魔女を統べる魔女の長よ………なんて仰々しい挨拶はいらないか。うんうん、じゃあ友達になりましょうか、可愛い可愛い俺のスターズ」
………姉にはなれないって言ったけどね。
そして、俺と千夜さんは別人だけども、それでもこの身体になった以上は繋がりが生まれている。
どういうことかといえば、少しだけ妹に感じる気配に似たものが胸中を占めているのだ。この感じ懐かしいなぁ。
この世界に来てから家族のことはあまり、思い出さないようにしている。帰ることのできない場所だ、ホームシックになっても唯々悲しいだけですから。
それでも、ね。置いて来てしまった―――いや、俺だけ放り出されたのかは分からないけど、そうして離れてしまった大切な人に、感慨がないなんてことはあり得ない。
「………代わりなんかじゃ、ないけどね」
それでも、注ぐべき愛情を捨ててしまうことのないように。
俺にも家族が居たのだと、忘れてしまうことのないように。
「その言葉だと、友とは違う気もいたしますが?」
「じゃ。妹」
「………姉には」
「なれないと言ったばかり、うん。そうだね………でも、それは千夜の魔女にはなれないって意味だよ。えーと、ほら。あるらしいじゃん、女子高だと」
なんていうんですかね。学年が上の女性に対して、「お姉さま」と呼びかける、人によっては夢のような風習が。
「じょしこう?」
「女子だけの学園だよ」
「………人の世には、そういうものもあるとは聞いたこともありますが」
「そこだと血が繋がってなくても、姉妹関係を結んだりする、らしい」
当然、行ったことはありません。忘れちゃいけないけれど、俺は元々男である。はい、女子の園に入ったら変態確定です。
「それと同じようなものだと思ってよ。それとも嫌かな、だったら無理強いはしないけど」
「―――嫌、な。ものですか。ふふ、年下のお姉さまとは………それも、良いものなのでしょう。妹のような姉でも、放っておけないことに変わりはありません」
「んぅ?」
「なんでもありませんよ、お姉さま。………いえ、お兄様と呼んだ方がよろしいでしょうか?」
「任せるよ。今となってはどちらでも、だ」
俺は俺、魂は肉体の奴隷であっても、俺という存在と尊厳が穢されるわけでは無い。
というか性別なんて些細なものだよ、本人が本人らしくいられるかの方が余程大事なのだから。男扱いされても、可愛いって言われてもどっちも嬉しいし。嬉しいというかむず痒いの方が正しい気もするけど。
「では、お姉さまと。マツリお姉さま、ええ。まさかこの歳になって姉が出来るとは」
「………ツァイトちゃんが既に数百歳ってことは、スターズは何歳なんだろうか」
「訊かぬ方がよろしいかと。なに、どうせ事実かどうかを知る術もありませんから」
少しだけ悪戯っぽく、唇に人差し指を置くスターズ。
………歳だけじゃないよね、そもそもこの子は子持ちの人妻である。スターズを妹だとすれば、なんとツァイトちゃんは俺の姪っ子だよ、まあ驚きだよね。
いや、何一つ嫌なことも困ることもないのだけれど。
「やはり。千の夜とは違いますね、マツリお姉さまは」
「そりゃそうだよ」
「ええ―――だからこそ、新しく興味が湧きました。貴女の歩みに、その瞳の見るものに」
恒星秘めて煌々と輝く橙の眼球が、俺の翠の瞳と交わった。
美しく興味を持つように見えるその瞳は、逆に俺の目をどう見ているのだろう。こればかりは分からない。
髪が揺れる、そして吐息が零れ落ちた。残念そうに首を振るのは、恒星の瞳の彼女である。