夜の招待
鼻先に淡く、薬草の香りが伝わる。
その香りの元は、手元の硝子製のカップに波紋を浮かべて揺れているハーブティーだ。
香りからわかる材料は、オート………麦にローズマリー、ネトルだろう。この中ではローズマリーが一番香りが強いが、それでも鋭敏な嗅覚はその下にささやかに包まれた香りもきちんと認識できる。
鼻の良さに関しては俺の数少ない特技だからね。間違えるわけにはいきませんとも。
さて。このブレンドはハーブ療法に使われるもので、身体の疲労回復に効くとされている。持ってきてくれたのは双子だけど、調合してくれたのはまた別の子だ。
お礼に行かないとね、会いに行くといって中々会えてもいないし、ある意味ではこの入院生活もいい機会かもしれない。
「ふぅ………」
口に含めば思わずそんな声がでる。もともとの材料に籠められている魔力も相まって、これは身体にいい。
窓の外を見れば、もう既に日は沈んで暫くが経っていた。
登りたての大きな月もそろそろ空に小さく浮かび始める頃だろう。
「んー。まあ、仕方ないにせよ………誕生日がこうして過ぎ去っていくのはちょっと悲しい感じもあるよねぇ」
………水連は、お墓の場所を探しにお出かけ中。勿論出かけ際に「絶対に部屋から出るな。振りではない。いいな」って念押しされまくったけどね。信用無いの悲しいなぁ。
彼女自身は今度で良いって言ってたけど、別にどこに行くつもりもないし、だったら自分のために時間を使ってほしいなって思って俺から提案したことだ。
結果、信用がなかったため、どこかに秘密裏に遊びに行くための方便じゃないかって勘違いされたわけですね。
双子は、仕事もあるしずっとは一緒に居られない。シルラーズさんも原因究明であちらこちらと忙しそうだ。ええ、はい。そうなるとですね………。
「一人なんだよなぁ、どうしようもないけどさ………」
ケーキくらいは誰かに買ってきてもらえばよかったかな。
自分で作るにせよ、あまりお菓子作りは得意じゃない。料理と違ってやる回数少ないから。それと同時に、調理器具に触ることが今は出来ない状況だ。浮き出た紋様のせいでね。
精々が優しく持ったカップに口を付けるくらい。むむぅ、人寂しいとはこういう気持ちを言うのだろう。
「………ん」
そういえば、と思う。
このアストラル学院は街のシンボルとして扱われることがある程に巨大な建物なのだけど、その建物の中にももう一つ、外から認識できるほどに大きな建造物があるのだ。
それは、アストラル学院を頭上から見た際に、正面門の左側に建てられている時計塔だ。
巨大な校舎に埋もれない高さを持つその時計塔は四面に時計盤を持ち、この学院の中の人間に正確な時間を知らせているのである。
時計塔の大きさは学園の中心にあるオークの巨木よりも尚高い。さらに不思議なことに、あの時計は今まで狂ったことがないそうなのだ。あ、これは学生たちの噂話を盗み聞いただけなので、信憑性には難がありますが。
灯台下暗し、というつもりはないけれど、時計塔の付近を歩いていると逆に文字盤が見えないんだよね。高すぎて。
勿論今は夜なので、時計盤は見えにくい。頑張れば見えるけど、目を凝らさないとならない。あ、目を凝らすって魔術的な意味、つまり暗視ね。ええ、今は出来ません。
それでもと、偶然にせよ存在を思い出したので時計塔の方を見上げれば………ふと、一瞬。意識を反らした瞬間に、魔力を燃料とする光源が揺らいだ。
「あら、まあ、おや?」
この世界は科学よりも秘術………異能の力が発展しているため、電気の代わりに魔力を用いた魔力式電灯などが発明されてはいる。
だが、時代的には多くの人が思い浮かべる中世の街並みが立ち並ぶという状態なので、暮らしやすさはあるものの細かいところで現代よりも技術的には劣っている箇所も多い。例えば街中に少量設置された街灯、これは数を用意することが出来ず、そして光量も少ない。
アストラル学院の場合は魔術技術研究の最先端ということで、学院内部では魔術応用の道具なども頻繁に使われているにせよ、魔術師にとっては貴重な魔力を魔道具の電池として浪費することを忌避する人も多いため、無駄遣いは推奨されていないという背景があるけど、それはさておき。
先程揺らいだ光源を始めたとしたこれらは魔力を用いた特殊な機材ということで、現代日本で遭遇する様な電気的トラブルっていうのは殆ど怒らないというのは大きな特徴なのだ。
配線トラブルや電気基盤の損傷は発生しえない。勿論内部に刻まれた魔方陣が崩れればその限りではないけど、魔的に守護されたそれを歪ませるのは大きな手間がかかる。
普通に扱っていれば、こうして灯りに揺らぎが生じる理由など一つか二つしかない。
「まず、可能性を潰していこうか」
鼻を動かし、香りを集める。
―――光源の不具合、その理由の最たる者。それは、何のことは無いただの魔力源の枯渇、つまり電池切れだ。
魔力という燃料を糧に動いている以上、それが尽きたり、尽き欠けたりすれば不具合も発生する。
俺の魔力の感知器官は嗅覚が大きな面積を占めているので、魔力の量を確かめるくらいならばちょっと意識を集中させればそれでいい。光源内部の魔力を調べてみると、あらら。
「満タンかー、そっかー」
そうだよねぇ、シルラーズさんがそういう所を放っておくわけもない。
「うん、となると」
………ちょっとだけ、困った事態になってきているのかもしれない。
そう、予感した瞬間にぶつり、と―――。
光源が完全に機能を停止し、部屋の中に暗闇が満ちる。開いた窓から、冷たい風が入ってきた。
「千の夜の―――落胤?」
「いや人違いです。落胤では無いです、血縁関係は………書類に書かれるような感じじゃないし」
無いとも言い切れないのが微妙な所。ようは彼女本人に近いだけの、まったくの別人だからね。半分、いや、半分以上人間じゃないというだけの存在ですし。
………と、普通に会話してしまったけれど。改めて、声の主の方向へと向き直る。
「君は、誰かな」
「分かりませんか。貴女ともあろうものが」
「いや、そういうことじゃなくてね。名前、君の名前を教えてもらってもいいかな」
そう。何者かは分かっているのだ。問題は誰なのか、個人に関しての質問であった。
「うん。魔女っていうのはたくさん存在するっていう知識はあるけど、だからこそ君自身がなんていう娘なのか知っておきたいんだよ」
「………噂に違わぬ、変わった人ですね。誰であれ魔女という存在は怖がられる対象ですのに」
詳細に分類すれば俺も魔女の一種類だからね。同族を怖がったりしないよ。
さて。魔女の知識によって魔女という存在の情報は理解しているけれど、こうして会うのは初めてだ。なにせ彼女たちは普段は人前に現れることは稀で、奔放な行動によって只人からは恐れられる存在―――この世界のシステム、法則の体現者たる者たちである。
魔女は人に非ず、魔女という個別の種族であり、長命な、モノによっては歳をとらない存在であり、共通した魔女の魔法と、個人が持つ特殊な秘術を受け継ぐ、古からの魔に連なる者ども。
最古の魔法使いにして魔術師。それが、魔女だ。
法則を体現するというのはその通りであり、この世界に張り巡らされた生物が生きるためのルール、即ち法則を自在に編みかえることが出来る唯一の存在こそが魔女なのである。とはいえ、概念によって形作られ、概念を生かす旧き龍とは違い、魔女が消滅してもその法則は乱れることは無いのだけど。
あくまでも法則が編み出された際に同時に生まれ落ちた、意志ある星の代表者、それが人の形態を取ったものである。
―――例えば、落体の法則。俺の世界ではガリレオ・ガリレイが発見した、落下の速さは重さとは関係がないという物理法則だけど、この世界ではその法則を体現する魔女がいて、その魔女は落体の法則を自在に書き換える魔法を使うことが出来るのである。
似たことは魔術でも魔法でも頑張れば行える。浮遊魔法は落体の法則を無視していることと同義であるから。
………でも、魔女の法則魔法は、その法則の支配という点では他の追従を許さない精度と自由さを持つのだ。
落体の法則を操る魔女の前に立てば、例え真空中だろうと小石を山よりも早く落とすことが可能で、風に飛び散る筈の羽毛を地面に叩き落とし、空を駆け、降り注ぐ隕石をこの星の反対、遥か彼方へ落とす事すらできるのである。
なお、現代では既に否定された法則の体現者も存在する。編み出されれば産み落とされるためだ………まあ、本質的にはあちらさんと似た存在だからね、俺たちって。
ああ、そうか。じゃあ、あの時計塔についての事柄が急に脳裏によぎったのは、この出会いが直近に迫っていたから、なのだろう。
この世全ては必然で構成されているとまでは言いきらないけど、魔法使いたるもの直感に思考が寄せられることは間々あることだ。
「………時計塔の魔女、ツァイト。この度は、魔女である貴女を―――集会に招きに参りました」