妖精の微笑み
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「知ってはいたが、子供のような一面もあるな、お前は」
「まあ確かに、精神性が完全に大人とは、言えないかなぁ」
双子の背中も扉の向こうに消えて少し経った後、水蓮の声が聞こえる。
ベッドの足の方に視線を向ければ、人の姿を取った水蓮がカルテを覗きながらそんな風に呟いた。
………この仔、影の中に隠れていたからなぁ。布団の下に潜り込ませたカルテにも手を伸ばしていたし。
「それよりも君が元気になってくれてよかったよ」
「お前が言うな。重傷なのはお前の方だろう」
「ん。まあ傷ついたのは身体だけだから」
「心も体も傷が付けば等しく弱る。どちらが良いかなど存在しない」
「………はーい」
いやその通りですね、うん。
―――ああ。でも、良かった。もう水蓮からは呪いの香りは漂ってはこない。完全に吹っ切れたのだろう。
本来なら喪った痛みはそうして消えていくものなのだけどね、今回に限ってはその傷を抉る存在がいたからこそ、これだけ厄介なことになっていたわけである。
もう終わったことだけど。そして原因はシルラーズさんが調べてくれている。今は、とにかくその傷が癒えたことを祝うべきだろう。
「………ああ。そう言えば、あの魔術師と遠縁に詫びておいた。迷惑をかけたとな」
「ミーアちゃんはともかくとして、アルテ………ミーシェちゃんに?珍しいね」
「隣人たる私とて、礼を言うべき場所は弁えている。失礼だな」
「あはは、ごめん。二人はなんだって?」
「謝るな妖精、私はやるべきことをしただけよ、だそうだ。遠縁の方は―――吹っ切れたようだからな。笑っていた」
「そっか。もう………いや」
口を開こうとしてやはりやめる。
もう同族嫌悪は消えたのか、なんて。当人のどちらにも聞くことではないだろうから。
「後でミーシェちゃんにもお礼しないとなぁ。というか約束の賢者の石を渡さないと」
「む。破格の触媒だな。あてはあるのか」
「ん、俺の血をちょちょいとね―――あいたっ?!」
腕を伸ばした水蓮に頭を叩かれる。いや、そんなに強くはないんだけど、今は全身が痛んでいるので衝撃が来ると身体全体が揺らされて痛いのですよはい。
ふら付いたせいでぐるぐると首が回る。何度か目を瞬かせて水蓮の方を見ると、呆れた表情で彼女は俺を見ていた。
「いや、違うんですよ、これは元からの約束でね?今回の依頼に協力してくれたら賢者の石をっていう………」
「この大地に根を下ろして生きていくのならば、あまり身を削るな。過ぎれば毒となる。お前にとっても、大地にとっても」
「もちろん、そうするつもりだよ。でもきちんとお礼はしないと。だから今回だけは見逃してほしいな」
「………甘えた表情をするな、馬鹿」
小狡い方法なのは自覚してます。でも賢者の石を正攻法で作るのは手間だからね。
罪には罰があるように、恩には礼を以て返さないと。この世で生きていくならば尚更に、その気持ちは忘れていはいけない。
異邦人、この世ならざる外界からの訪問者であるという自覚は必要で、それを理解したうえで受け入れてもらったことに感謝をしなければ、俺という存在はただの気味の悪い余所者なのだから。
異世界には異世界の生活があり、人が住み、文化がある。成り行きであったとしてもその世に生きる魔法使いへと変じたのであれば、その理を守護し、尊重するのが当たり前ってことですね。
「というかさ。話、聞いてたんだ」
「聞こえてきた。影の中にいれば当然だろう。ああまで熱烈に誓いを立てている所に立ち会うのもどうかとは思ったが、まあ行く当てもない」
「………元の泉には帰らないの?」
「もうあそこに帰る理由はない。我が子はもう大いなる自然の中を循環しているのだから」
「そう。じゃ、これからどうするの?やりたいこととかある?住む場所とかは?」
「―――いや。特には思いつかない。行く場所はまあ、妖精の森の中を適当に探す。森の主、あのプーカも断りはしないからな」
「そうだね。プーカは去る者は追わず来る者は拒まずだから」
ま、例外もあるけど。それでもあちらさんを拒むことは無いだろう。
でもねぇ。せっかくここまで縁が生まれたのだ………依頼が終わったからはいさようならっていうのも、ちょっと寂しいよね?
だから、と。水蓮に向けて手を差し伸べた。
「行くところ、決まってないなら暫くうちに居なよ。部屋は結構あるんだ。君たちにとっては部屋なんて関係ないかもだけど」
「………いいのか」
「勿論。だって俺は魔法使いだよ?」
君たちと共にあるものだ。手助けすることに何を躊躇する必要があるだろう。
―――そもそも、同じ大地に根付くものでしょう?親しき隣人が家がなくて困ってるんだ、部屋にも空きがあるんだから当然、それを貸すくらいのことはしますとも。
根を張り始めたばかりの新参者だとしても、それは変わらない。
「それに友達だし」
「そうか」
「うん」
「………そうか、お前はそう言うやつだったなぁ」
俺の形を模したという人の形態をとった水蓮。その細く長い指先が俺の手に重なる。
模したといえど、その在り方が違えば見た目に見える姿形も異なっていくものだ。俺は俺、彼女は彼女と、大きな違いはきちんとある。
そう。例えば、俺は今の君みたいに―――跳ね、波紋を広げる雫のような、清らかで清廉な清流のような、そんな美しい笑みは作れない。
そして。やはりと思うのだ。
水蓮、君はやはり美しく、そして怒るよりも悲しむよりも、笑みを湛える事こそが似合っていると。
「………家に帰れるのはしばらく先になりそうだけどね」
「その傷が治らねば何もできはしないからな。当然、私も治るまでは部屋から出さない」
「大丈夫だよ、どこも行かないって」
「さて、どうかな。心配をかける天才だからな、マツリは」
「失礼な!配慮もしてます!ちょっと足りないだけで!」
「ちょっとどころなものか。全く足りていない」
唸る俺に対し、可笑しそうに笑みを浮かべ続ける水蓮。
そんな彼女の長い髪が揺れて、そういえばと唇が開かれた。
「一つ、やりたいことが見つかった」
「ん。なに?」
「―――あの子の、な。墓を作ってやりたい」
その言葉に。一瞬だけ、眼を見開いて。その後すぐに、俺も微笑んだ。
「良い場所はあるか」
「皆に聞いてみるよ。そして、一緒に作ろう」
「………ああ」
一旦閉じられた唇から息が零れる。再び開かれると、水蓮は俺の目を見て言った。
「それがいい」
白む光の中、やはり彼女は微笑んでいた。
呪いの影は祓われ、真実の言葉を思い出した彼女の笑みは、もう曇ることは無いだろう。美しい人を食わぬ水棲馬は、清流の輪廻へとその身を戻したのだから。
………白き水棲馬のお話はそうしてゆっくりと幕を下ろす。
ミーシェちゃん、もといアルテミシアちゃんの賢者の石に関するあれこれや、シンスちゃんと双子のその後など語るべきことはあるけれど、水蓮の笑みを取り戻すまでのお話はここまでだ。
なに、大丈夫だよ。語り切れないそれらも語るときは訪れる。なにせ、俺はこの世界に根を降ろしたのだから。
やるべきことは身体を治すこと。そして早く戻ること。
―――この世界の日常、即ち俺の日常に、ね。