そして呪いは祓われる
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呼気を漏らす。
さあ、出来ることはやった。これがどう芽吹くかまでは見えていないけれど、うん。きっと―――大丈夫。
血の飛沫が舞う灰色の世界、そこに漂うローズマリーの香りには悪夢を払い、記憶力を上昇させる力がある。そして嗅覚は脳の古い領域を刺激して、過去に埋もれた記憶すらも呼び起こす。
正真正銘、今の俺の最後の魔法………その結末は。
「お前は、無理ばかりしているな。今回、その理由は私にあるのだろうが」
「………あ、はは………悪夢は、醒めた?」
「ああ。もう、視界が覆われることはないだろう。お前のお節介の賜物だ」
「うん………それなら、良かった」
呪いの影が呻く。いや、呻きを超えて、叫ぶ。
「有り得ナイ………アリエナイ!!??アノ夢カラ逃ゲルナド!!」
「醜悪な影だ。私の写し見であるのは皮肉が効いているが」
「―――モウ一度、ダ。モウ一度、オマエヲトリコミ………」
「ああ、ちょっと黙っててくれ。私の友人を治すのに忙しい」
繋げられた腕から魔力が流れ込んでいるのが分かる。裂けた首元に水蓮が頭を近づけると、舌がゆっくりと出された。
「沁みるぞ、我慢しろ」
「………ぅ」
ちょっと、もう………声を出すだけの力も残っていなかったので、頷きで返事をする。
その直後に水蓮の舌が俺の傷口を舐めていった。
鮮血を溢れさせていた傷口は、その行為によって瞬く間に塞がっていく。肉体を持つ世界ではこうはいかないだろうけれど、ここは魂だけの世界。
魂の破損は致命傷だけどここは致命傷でも力があれば治すことが出来る場所。
完全に消滅する前ならば、こうして命は繋がれる。
―――ま、瀕死には変わりはないんですけどね。
「本当に、無理をする。如何にお前でもこの空間ならば、死ぬ可能性があるというのに」
「………友達、だから………助けるよ、そりゃあ、ね………。この世界で………俺にとって、友達って………特別なんだよ………」
「そうか。安心しろ、今度は私が助けてやる」
それは、安心するなぁ。
と、もう内心でもあまり余裕がない。冷たさが背筋から迫ってきているのは、度重なる肉体の酷使の結果だ。
息をするだけで全身が痛むほど。だから、任せるね、水蓮。
「モドレ、キサマノイバショハコッチダ」
「いや。憎悪、復讐心。そういうものを達成するのもまた、一つの生だろう。だが………少なくとも、お前と共にということはあり得ない。お前に全てを預け、借り物の怒りを振りかざすことに、何の意味も宿らない」
「―――キィ、ヒヒヒヒヒヒヒ?!?!?!!ナニ、ナニヲ、イッテル、コッチ、コッチコチチチチチ」
あぁ。水連を、核を喪ったから………もう、自我も解けてきているんだね。
呪いの影の姿はもう、怪異とそう違いがない程に溶けてしまっている。簡単に表せばずぶずぶの泥の塊だ。
そんな汚泥が、水蓮に対して腕を伸ばす。
「お前という呪いが、何のためのものなのか、誰によって仕組まれたことなのか。それはもうどうでもいい………だが」
泥が垂れ落ちる。人の形をとった水蓮の頬に纏わりつくと、表皮を溶かしながら小さな火傷を作り上げた。
左頬の傷口に触れると、水蓮が腕を振るった。
「友にこれ以上、迷惑をかけたくないのだ―――眠れ、誰にも知られることなく、静寂の中へ」
それと同時、水蓮の頭上に構成されるのは渦を巻く膨大な水流。
魔力によって生み出された、アハ・イシカの魔法だった。
「『静謐の水 大地削る激流 水は循環し、やがてその全てを流し潰す』」
「『神秘の………っ、花! 穢れ知らぬ、花 清浄にして聖 神秘にして芯なる白花』」
水蓮の背中に凭れ掛かりながら、魔法にちょっとだけ力を貸す。
あの呪いは特別性だ。なにせ、俺と同じように、あの人に影響を受けているから。
「………後で、説教だ」
「お手柔らか、に………あはは―――『守護し、払う、仏の華 その名は 』」
………東洋世界において、精神性や生命に例えられ、宇宙の中心とされる花弁、その名は。
「『ロータス』」
水蓮の生み出した水の中に、密やかにロータスの香りが混ざる。ロータス、即ち蓮の香りが。
少し前にこのロータスをつかった魔法を使ったことがある。あの時は鍵開けに使ったけどね、ロータスにはこういう使い方もあるのだ。
清らかなる香りを帯びた渦巻く水、それが水蓮の命令を受け、さらに強く凝縮された。
さあ。字こそ異なれ、ロータスとは君の名前、君の花だ。どうか、存分に。君の本当の力を、振るってほしい。
「『―――渦を解き、万理を沈めよ 蒼き飛泉』」
渦が、輝く。いや、そうじゃない。渦の底、渦に絡めとられ、深き水の底に閉じ込められた光が、水蓮によって解放されたことによって我先にと逃げ出しているのだ。
光が汚泥を照らす。
それと同時に、渦から溢れた水流が光をなぞるようにして汚泥に降り注ぎ―――その肉体を両断した。
「ギ、ャヤヤヤヤッヤ、アアアアアアアアアアア!!!」
その水流は一本だけではない。
幾つもの水流、ウォーターカッターが汚泥を完全に切り刻んで、そして。
断末魔を上げて、水蓮を蝕んでいた呪いの影は呆気なく灰色の世界の灰色の景色と同化してしまった。
水蓮が重い、けどその中に少しだけ後悔と悲しみと憐憫を織り交ぜた溜息を吐いて俺に語り掛けた。
「終わったぞ、マツリ………迷惑を、かけたな」
「とんでも、ないって。というか、今から………俺が迷惑、かけるからさ………」
重い瞼をそれでも開き、水蓮を見上げる。
ああ、良かった。文字通り憑き物が落ちた水蓮の表情は、笑っていたから。
静かに、揺蕩う水のようなものだけど、それでも。とても優しく、君は笑えているから。
良かった、無理をしたかいがあって。君はやっぱり、怒りの表情は似合わないもの。
………あとは、よろしくね。
身体から力が抜け、それに伴って灰色の世界に罅が入った。硝子が砕け散るような音が響き、世界に色が取り戻されていく。
本来の世界から浮いていたこの歪な空間がとうとう、限界を迎えたのだ。
術師である俺が意識を失いつつあるためである。でも、水蓮を呪いから解き放った以上、もうこの空間に留まる理由もないからね。戻りゆく色彩を楽しみながら、素直に眠ることにしよう。
「少しだけ………眠るね………」
「―――ああ。おやすみ、マツリ」
異界が砕け散り、現実へと引き戻される。
ゆっくりと、水蓮が俺の頭を撫でる。その心地よさに包まれながら瞼を閉じた。
暗闇の中で、アルテミシアちゃんとミーアちゃんの声が聞こえた。
「ちょ、ちょっと!?どこから出てきてるのよあなたたち!」
「マツリさん………!?」
「あーもう!助けるわよ!そこの妖精、勿論手伝いなさいよ?!」
***
「………私の魔道具は一人乗りなんだけど。流石に総勢五人は想定外なんだけど?」
「我慢しろ。………私も、あまり、体力が残ってるわけでは無い」
「そう。ま、そうでしょうね。呪いに浸っていたわけだもの」
横で、シキュラーの魔術師、アルテミシアさんと水蓮が話していた。
水蓮の太ももにはマツリさんが寝かされている。私は………同じようにシンスを太ももに寝かせていた。
マツリさんの身体は全身に紋様が浮き出ており、苦しそうに荒い呼吸を繰り返している。
結局、今回もマツリさんは無茶をした。その原因の一つは間違いなく私である。私が無茶をさせたのだ。
「―――助けられてばっかりなのは、私………」
草木のブレスレットに指を置く。マツリさんという存在に、私は救われて。
そして、今回は過去すら救われた。
………姉さんじゃないけど、助けられてばかりっていうのは享受できない。今はまだ無理でも、必ず………マツリさんを助けられるようになるんだ。
シンスは穏やかな寝息を立てている。その頬を撫でて、額を合わせた。
「貴女にも、色々と返さないと、ですね………」
空を飛ぶアルテミシアさんの魔道具の絨毯が私たちをカーヴィラの街へと運ぶ。
今回の”果ての絶佳”盗賊団事件はそうして、ひとまずの幕を下ろした。
多くの傷と、幾つもの救いを齎して。
………次に語られるのは、その後日譚である。