泡沫は弾け、浮かび上がる
***
………懐かしい、微睡みを覚えた。
午睡のような思考の停滞、意味もなく訪れる仄かな幸福感情。
「おはよう」
「―――。ああ………」
私は寝ていたのだろうか。珍しい、記憶が混濁する程に眠ることなどそうはないというのに。
目を空ければ、愛しい我が子の姿があった。
「………?」
いや、私の子は―――。
その先を考えようとして、思考が止まる。これ以上考えてはいけないと、どこか深いところで抑制がかかった。
思考の制限、その理由を考える前に、我が子が泉の中へと潜っていったのが見える。
思わず、手を伸ばした。
「おや」
これはまた、珍しい。私が人の姿を取るとは。
決して変化できないわけでは無い。むしろ私たちの種族は変化することは得意な方だ。まあ遠き地に住まうプーカは人への変化だけは苦手というが、私たちアハ・イシカは人も他の存在にでもある程度の質を保ったまま変わることが出来る。
だが、ああ。私はかつて、人の男と交わってより―――人の女の姿など、取った覚えはないのだ。
ましてや、月夜の泉に映るこの姿のように、いっそ刺々しいまでの美しさを誇るこのような姿、なにか元となった存在でもいなければ生み出せるはずもない。
………そんな存在、いただろうか。だが、確かにこの豊満な姿と白く長い絹糸の髪には見覚えがある気がした。
耳元にシルフたちの歌声が響く。風に連なる同胞たちは皆、歌が好きだ。泉に浸っていれば、その歌はいつも聞こえている。
だが。今宵の詩はどこか、物悲しさと、強烈な懐古を心の場景として浮かび上がらせた。
「悲しい歌を謳うなど、我らが同胞にしては珍しいものだ」
なぜか身に纏っていた薄い白布を剥ぎ取り、水面に浮かべた。流れ行くそれを見送りながら、私は我が子を追って水の底へと潜る。
水は命の根源だ。故に優しく我らを包み、等しく災いを与える。それでも誰も彼もが水という存在から逃げることは能わない。
―――悲しい歌はまだ響く。水底にすら届くほど、優しく強く、水に溶けて声が連なる。
「我が子よ、愛しい我が子………どこだ、姿を現せ」
「お母さん。僕はここだよ」
「………フェルアーレ。あまり私から離れるな」
皆底を踊るように跳ねると、私と同じ白き毛並みを持つ我が子の頭を撫でる。
―――ずぶり、と。沈み込むかのような錯覚を得た。
「………っ?!」
「お母さん?もっと撫でてよ、いつもみたいに」
「あ、ああ。そう、だな」
そうだ。
いつも、こうして私は我が子に寄り添い、毛並みを整えていた。覚えている、思い出と同じことをしている。
だというのに、なぜ私はこんなにも虚無感を感じている?この心情は、何のせいだ。
分からない、そもそも………この光景を、私はどこかで見たことがある気がするのだ。
差異はある。人の姿はしていなかったはずだ。でも、結末に変動はないと、直感させる。
「………、………ふ、ぅ」
「どうしたの?なんか、辛そうだよ」
「気のせいだ………お前は、何も気にしなくていい………」
心臓が脈打つ。刺すような頭痛が襲う。
やはり、私は何かを忘れている。それは間違いないだろう。
思い出そうと足掻けば、それだけ痛みが増していく―――だが、果たして。その痛みを乗り越える必要なんて、あるだろうか。
この深き安寧の微睡みを、仄かに輝く午睡の一時を破る必要があるのだろうか。
「傍にいてくれ、フェルアーレ………私は、もう………」
「―――大丈夫だよ、僕はずっとここにいるから」
「そうか………ああ、良かった………」
「ずっと―――ずっと、ね」
我が子の声がとても優しく、私の芯を溶かしていく。
何よりも、誰よりも。愛しく大切なものからの、砂糖菓子のような思い。
満足だ、私の心は満たされている………その筈なのに。
「―――あいつの声が、届かない………いないとなれば、それはそれで………なんとも、惜しいものだ」
「アイツ?アイツって、ダレ?」
「あいつとは………む………誰だったか」
「思い出せないなら、思い出す必要ナンテ無いよ。お母さんは、僕だけを見てて………僕を、放さないで」
「―――あ、あ。そうだな」
腕の中に眠る我が子が一瞬、泥人形のように見えた。
頭を振り、幻影を払えば映るのは私の記憶と変わらぬ、フェルアーレの姿。
………小うるさく、唄が響く。この唄は嫌いだ。
心の底の焦燥感を引き摺りだされるような、この唄が。
「”あらあら。忘れてしまったの?”」
「”それは本当にあなたの子供なの?”」
「”そんな顔をしていたかしら”」
「”そんな声をかけたのかしら”」
「”うふふ、あはは”」
「”なんてつまらない人形遊び!!”」
「”そんなことのために、あの娘の欠片を忘却するの?”」
「あ、の子?」
「お母サん、僕を見テ」
「なんだ、お前たち。私は、本当に大事なことを忘れているのか?なあ―――エアリアルよ」
「僕を見テ、僕ダケを見て」
「それはこの身体に関係があるのか、空いた心の欠落に意味を齎すのか?」
「ミテ、視て、見て、観て――――――オカアサン、僕をタスケテ―――仇をトッテ………コロセ、コロセコロセコロセ―――、」
愛しき、いや。愛しい筈の我が子の声よりも、ずっと唄を謳っていたエアリアルの声に耳を傾ける。
「”その子はもう、いないのよ?”」
「”亡くしたものは戻らない!!”」
「”また亡くしたいの?”」
「”愛しき楽しき、私たちの同胞を!!”」
「”千夜の血を引く彼女の香りを”」
「”我らに寄り添う魔女の温もりを?”」
「「「”それが嫌なら思い出して!!あの娘の名前を 茉莉花の名を持つ 古き魔女の半身を!!!”」」」
―――艶やかで白い腕が、私の頬を撫でる。
唄は、あいつの思いだった。物悲しく、心を掻き立てつつも………それでも、真摯に私を助けようとする、あいつの―――マツリの、声だった。
「ねぇ、”水蓮”。………白く美しく………気高い君よ」
私が手の中に握っていたのは、ただの泥人形。愛しき我が子の姿など、どこにもなかった。
「思い出してほしい………君の子は、最期の時に何を言っていたのか」
この場所は、フェルアーレの最期の日、その繰り返し。この景色の先、それは私が愛しき我が子を喪うという結末だ。
「手伝って上げるから………だから、ね?」
翠を纏う煙霧の霧が、水底を彩った。
光を吸い取る水の中で浮かび上がるそれは天高く刻まれた星月の輝きか、或いは………生命によって生み出された地上の灯火か。
どちらでもいい。眼前に浮かんだそれらは兎に角、美しかった。
腕の中で歪な泥が叫ぶ。最早不協和音にしか聞こえない、悍ましき声で。
ただ、ただ殺せと―――そう、私に語り掛けていた。
「息を、吸って」
静かに心の底に入り込む、しかし嫌悪を感じない友の声に頷く。
最早変わることのない結末、この先で腕の中に抱いた我が子は、忌まわしき魔術師によってその命を奪われる。
そして、放たれた弾丸は私の腹にも傷を開け、醜き呪いを吐き出した。
これはその光景、心の傷を無限に私に見せ続ける呪いの記憶の再現。
………私がこの世界に閉じ込められているのは、その方が都合がいいからだろう。呪いをかけたものにとって必要なのは私の魂ではなく、私の身体だけだ。邪魔な魂はこの空間の中で擦り切れさせ、摩耗させ、消滅させてしまえばいい。
マツリの存在を忘れていたのも、この泥人形を我が子と呼んでいたのも全て、摩耗の結末だ。私は随分とこの記憶を繰り返していた。
ほら。結末がすぐそこに。幾重もの魔術によって姿を隠した魔術師の弾丸が私たちを狙い、魔弾が撃ち込まれる。激情と諦観が入交り、心を覆いつくそうとするが、その前に。
「―――、ぅ」
息を、吸い込む。友の言葉の通りに。
魔弾によって爆ぜた肉体と、飛び散る赤い飛沫。香り立つ硝煙と濃厚な血の匂いは―――錯覚。
死の中で、フェルアーレは口を開く。仇を取ってと、罰を与えてと………ああ。分かっているとも、知っているとも。これもまた、錯覚なのだと。
思い込みに囚われず、呪いの鎖を砕き、死の楔を引き抜けば、本当の香りが現れる。
曰く嗅覚は記憶の深くにもっとも強い影響を与えるという。薬草魔法、古き力を持つハーブの力を借りた、香り高き秘術。
なればこそ、其の魔法を以てすれば、掻き消されたはずの記憶すら、こうして思い出せるのだ。
”………ねぇ―――僕は、お母さんを守れたかな?
傍にいることは出来なくなったけど、でも
貰った優しさを、返すことは出来たかな………”
そう、そうだった。私と同じ白い体毛を血で染めながら、あの子は私に向かって笑いかけたのだ。
”僕の名前は、お母さんが愛した人
僕という存在は、愛した人の忘れ形見
ああ、こんな短い時間じゃ、伝えきれないよ………もっと、こういう話をするべきだったねぇ………”
声が薄れていく。命の灯火が吹き消える。
”お母さん………ねえ、お母さん”
最期の言葉が、語られた。
”僕を、忘れないで―――そして、どうか、僕にしてくれたように、誰かに優しさを与えてあげて………”
………息をはく。
そうか、あの子の最期の言葉は、そうだった。
”どうか優しさを”
呪いに掻き消された本当のフェルアーレの遺志を、もう違えてなるものか。
手を伸ばす。水底から薄光を放つ空へ。
光が墜ち逝く………マツリの気配が薄れていく。そうだな、まずは。
散々ツケを溜めてしまった、あのお節介焼きの魔法使いを助けに行こう。返すものがたくさんあるのだ、死んでしまっては―――もう、返せない。
「だが、その前に」
懐かしき記憶を振り返る。忘れることはないだろう、だが。
もう、こうして鮮烈なる我が子の最期を見ることもないだろう。故に、その前に………あの時できなかったお別れを。
「健やかに眠れ、フェルアーレ―――お前の想いは、二度と忘れないさ」
泡と溶けて………囚われの記憶が、弾けていった―――。