風を纏い
身体を動かす。意思に従い、実際に俺の身体は空を駆ける。
翼はなくとも、杖はなくとも、跳ぼうと思えば飛べるのが魔法使いというやつだ。いや、杖はきちんと持ってきてますけどね?
言葉のあやです、はい。
精神回廊に沈んだせいでちょっとだけ、半分よりももう少し俺という存在は人外に近づいてしまったから、例えば杖を自在に召喚したりとかも出来るのです。
魔神の召喚よりは難易度低いし、まああまり特別感はないけれど。
………無駄話はさておき。
「ああ、見えてきた」
時速に表せば三十キロ程度だろうか。原動機付自転車、俗にいう原付が出すことのできる法定速度くらいのものだけれど、決して遅くはない。
そんな程度で、彼女は―――漆黒の泥に覆われた水蓮は、空を飛んでいた。
いや。正確にいえば空を歩いているのだろうか。
崩れ、纏い、再び作り出され、そして壊れていく手足の影。それか確実に空という地面を蹴り抉る、そんな動作を繰り返していた。
姿を視認して、思わず鼻を摘まむ。何とも強い異臭がする………水蓮本来の香りとは全く異なる、呪いの匂いだ。
コールタールのそれはこの状態になって、いよいよ別の臭気を生み出し始めていた。
「呪いが花開く、かぁ。あんまりいいものじゃないなー」
―――腐った血の匂い。或いは。混ざり混ざった毒虫のそれ。
水蓮に刻まれしこの呪いは、蠱毒に類する悍ましきものに他ならない。
蠱毒自体は有名な呪詛だ、知っている人も多いと思う。あれね、毒虫を集めて殺し合わせ、最後に残った毒虫を呪いの道具として使役するっていうモノ。
毒虫は、毒を持つという生態から呪いに関係あるとされるからそのように使われたわけだけれど、じゃあ。
もしも、あちらさんを使ってその蠱毒を起こそうとしたのであれば?
「あちらさんだけを使っての蠱毒は不可能に近い。だけど、あちらさんである水蓮を核として、呪詛に染まらせた無数の人間の憎悪を纏わせれば、簡易的な蠱毒の完成だ」
そして。そこからさらに人間やあちらさんを殺し、取り込めば―――ほら、もっと凶悪な蠱毒が出来上がり、更には膨れ上がって世を覆うだろう。
呪いの輪が。悲しき連鎖が、世界を縛り付けるだろう。
黒霧の男の目的はそれだ。一つの小さな影も、集まり無数に広がれば、千の夜の霧と同じ物を生み出せる。現行人類にとっては―――もちろんあちらさんや人類以外の生物にとっても碌なことにならないけれど。
止めなければならない。もう誰も、古の魔女の脅威を求めてなどいないのだから。
………それに、水蓮だって取り戻さないとね。もう、彼女がこれ以上傷つく必要はどこにもない。助けたいから、助けるんだ。
鼓動を喪った胸元に手をやる。鈍い痛みはずっと続いているけれど、もう少しだけは持ってくれるはずだ。
でも、一人だけじゃちょっと心もとないないから、皆に手伝ってもらおうか。
―――水蓮、君を最初に運んだ時と、同じようにね。
「ここは良い風の匂いがするから………うん。君たちの手を借りたいな。いいかな、エアリアル」
「―――”もちろんもちろん!貴女にお手を貸しましょう!でもその代わり、貴女の髪をちょっと頂戴?”」
「あはは、好きなだけ、とは言えないけれど、いいよ。ありがとう、自由気ままな風の精よ」
空を飛びながら、髪の端を手で払う。小さく鋏で断ち切るような音がして、髪の先端十センチ程度が空へと舞っていった。
それと同時に空気が揺らぐ。集まり膨らみ、爆ぜた風の音のその奥に居たのは、美しい小人の姿だった。
―――ただし。彼女たちの背には、風で作られた四枚の翼がはためいている。
あちらさんの一種族、エアリアル。有名なのはシェイクスピアの『テンペスト』に登場する仔達だろう。プロスペローという男に使役されている、使い魔として表現されたあちらさんだ。
他には、例えばイギリスの詩人、アレキサンダー・ポープの作品『髪盗人』に現れる彼女たち。守護妖精として表されるこちらの方が、本物としては近いかな。
どちらも共通しているのは、風を操るあちらさんだということ。そして、人を助けてくれることが多いってことだろうか。ああ、『テンペスト』では人に危害も加えていたけれど、あれは命令だから仕方ないね。
実をいえば、彼女たちの仲間には少しだけ顔を合わせたことがある。キャンプ地に水蓮を運んだ時だ………けど、あの時にあった仔はここにはいないみたい。まあ、当然か。住んでいる場所が異なるので。
「”ええ、ええ!受け取ったわ、麗しき魔女の王!ではではあなたの手足と成りましょう!”」
「”みんな準備は良いかしら?”」
「”当たり前よ、いつでも良いわ!”」
「”乱暴な暴れ馬、まずは動きを止めないと!”」
「”駆けて”」「”揺らいで”」「”羽ばたいて”」
「”墜ちて”」「”跳んで”」「”煌いて”」
「「”そして自由に生きましょう!!”」」
風が吹き荒れ、エアリアル達が姿を増やす。
彼女たちの言葉はまるで唄のようだといつも思う。唄うように語るのは、まさに風の音と言うに相応しい。
うん。俺も手伝わないとね?みんなはあくまでも、力を貸してくれているだけだから。
力の指向性を定めるのは俺の役割である。
「”二葉に愛を 三葉に守護を そして四葉に幸福を!その葉、靴底、敷き詰めて、悪しき蛇を追い払え!!”」
―――無数に輝きを纏う、エアリアルたち。
風を象徴するあちらさんの一種族である彼女らの恩恵により、ただでさえ魔力に満ち溢れているこの崖の上に、膨大な力が蓄積する。
決壊間際の暴れ川のようなそれも………ほら、こうやって向きを定めてあげれば、強力な魔法の礎だ。
此度、この場にて唱えるは地を覆うクローバーの魔法である。
ハーブと魔法は非常に関係の深いものであることは既に周知の事実だけれど、ハーブはそれに対応する四大元素の概念がある。エアリアルたちと同じように。
さて、もちろんクローバーの支配元素は風―――彼女たちに借りた力を最大限生かすには、この葉の枚数によって魔法の効力を変えられるクローバーがもってこいなのだ。
「行くよ、水蓮………まあ、まず最初はさ」
いつまでもそっぽ向いていないで、俺のことをしっかり見なさい!
「”良い音”」「”良い声”」「”良い心!”」
「「”貴女の思いはとっても素敵!!”」」
美しい声を上げるエアリアルたちの中、魔法を刻む。
―――杖を、回す。空へ身を投げ出し、踊るようにくるりと一回。
煙管を模した杖の先端から、白い煙霧が吹き上がる。それはたちまちクローバーの葉へと変じ、蝶のように舞い上がって………水蓮の頭上に降り注ぐ。
「”私とあなたは流れる風雨!”」
「”止まることない風の宿命!”」
「”廻って回って踊り狂うの!”」
クローバーが影に覆われた水蓮の身体へと到達する。すると、それは即座に圧縮された風へと変わり、その動きを阻害した。
「―――ッ、ァァァァァァァァァァ!!!!!!!」
「う、………咆哮、っていうよりは………」
「”あらあらまあまあ、悲しくて泣いているのねアハ・イシカ?”」
「そうみたい。助けてあげないとね」
「”うふふ当然、好きよ貴女のその魂”」
「”でも気を付けてね魔女の王!”」
「”あの仔もただでは眠らないもの!”」
「忠告ありがとね、エアリアル」
でも、水蓮が俺に気が付いたってことだから、悪いことじゃない。正確には、気が付いたのは水蓮に纏わりついている蠱毒が、なんだけれどね。つまりは敵視されたってことです、はい。それはともかく。
さあ。ここからが本番だ。君を塞ぐその呪い、この魔法使いがすべて綺麗に消し去ってあげましょう。
だから、もう少しだけ。
あと、少しだけ―――待っていてね、水蓮。