魔法使いとひとりごと
「………まあ、話が結構壮大でよく分かってない部分もあるけどさ」
思わずため息が出るよね。黒霧の男の目的ってやつは。
より俺の心情をはっきりと現すならば、ちょっと怒ってます、はい。特に、千夜さんについてどうでもいいって言ったことがね。
俺の半身を構成している存在だからとかそういうわけでは無くて………君が、それを言うのか、ということだ。
千の夜の災厄はなぜ起きたのか、その根幹に対してのあれやこれやはまだ、語るべきではないというやつだけれど。うん、情報が不足している所もあるってだけです。
精神回廊、この全ての知識へと繋がれる場所においてすらアクセス不可能な情報の数々は多い。其ればかりは肉体を使って、つまり自分の足で集めるしかないだろう。
時間もかかるし手間もかかるから、当分先のことだけれど―――でも、一つだけ。
あの黒霧の男は、ミーアちゃんが読み聞かせてくれたあの絵本に登場した、千夜の魔女が喰らったというあちらさんに関係している。あの絵本自体、正誤の判別は付けられないものだとは理解していたけれど、どうやらもっと複雑な根が張り巡らされているようだ。
「さて。じゃあ、そんな重要な情報を与えてくれたのははてさて………いったい誰なんでしょうね?」
胸元に手を当てる。これは問いかけだ、実際には誰がこの精神回廊に俺を引き摺りこんだのか、見当は付いている。
「―――、--―――、―――」
響く声は歌声のそれ。俺という現代人には理解の及ばない、遠き言語。
古エッダ、或いはサーガ。北欧に伝わる古のノルド言語で語られたそれは、韻文と呼ばれる言語形態で構成されている。
それは、その韻文が人間の聴覚に対し、明確に感覚を与えるものであるからだ。日本であれば、これは和歌や俳句にも使われている。言葉を分かりやすくするならば、、一定のリズムを持つため、とんでもなく覚えやすく、そして脳内に蓄積させやすいってことね。
さて。かつて語られた神話や英雄譚は、それら韻文によって暗唱され、人々の間を長きに渡り歩き、今日まで伝えられてきたのだ。
唄とは、最も古き言葉であり、人の奥底の原初を思い起こさせる形無き言語である。だから、声の主が歌声で語り掛けてきても、驚きはしない。
「まあ、意味を認識できないから困るには困るんだけどさ」
今の俺じゃ、その言葉が分からないからなぁ………認識域の異相差がね。存在の次元が違うから駄目です、はい。
相手の方が、上位の存在過ぎる。人間が羽虫に語り掛けるような状態だ。
でも、歌の調子を覚えておくことは出来るから、今はそれをしておこう。
「俺はもう行くよ。連れてきてくれてありがとう」
「………―、―――」
背後は振り返らない。いや、振り返れない。
この空間は冥府にも似ているから、きっと背後を見れば魂を置き去りにしてしまう。後ろを向く、というのはただの行動や言葉と断じることのできない意味が宿るから。
小さな行動一つ一つにも気を付けないといけないあたり、本当に普段の魔女の知識とは比べ物にならない危険度があるよね、ここ。
肩から回されていた見えない腕の感触が消える。
幽かに、古本の匂いがする。いや、古びた香りが古本に似ているだけか。
「………生きよ。謳え、紡げ、………私の、半身………私の、写し見………私とお前の命に、祝福を………」
霧に覆われた風景の中で、白む地面を蹴る。
あるのは感触だけだけれど、身体は満足いく速度で飛び上がった。
「黒き妖精に、囚われる事、勿れ………」
唄は言葉に変じた。否、唄を、言葉として理解することが出来るようになった。
あの人が俺に合わせたわけじゃない。多分、この逢瀬で俺の方があの人に寄ったんだと思う。それが良い事なのか、悪いことなのかは分からないけれど、ね。
―――さあ、千の霧の中を進もう。夢見の時間はそろそろ終わりだ。
「じゃあね、また………いつか」
故に、目を開こう。この霧を抜けて、形ある世界の元へ。
***
最初に戻ったのは嗅覚だった。俺の探知器官、一番鋭い感覚が魔力と共に匂いを嗅ぎ取り、現実がどうなっているのかを認識させる。
まだ、身体は眠っている。意識が浮上するその最中に俺はいる。
だから、立ち消え始めた霧に手を伸ばせば、少しだけ―――情報を引き出すことも出来るのだ。
まずは、空間認識。
………ああ、遠くに慌てた様子のミーシェちゃんがいる。シンスちゃんが急にどこかに行ってしまったからだね。千里眼を用いて状況把握をしようとしているけれど、ここは高密度の魔力によって見ることは難しいから、あの魔術はあのままでは失敗するだろう。ちょっと手助けしつつ、こちらに引っ張ってあげようか。
思考に従い、身体を覆う樹木が形を変える。色は白銀へと、そして空を目指すように、或いは地を覆うように緩やかに成長する。
俺の力を通したそれの表面には、体表を覆うトリスケルの紋様が伝わっている。やはり、あの人に寄ったせいだろう、魔法の力がさらに上がっているのが分かった。
んー………まあ、便利に使わせてもらおう。今は、力が必要だから。
樹木に花が咲き、魔法へと変じる。花弁は妖精の輪を作り、描かれた環がミーシェちゃんの魔術を補助した。ついでに妖精の通り道を使ってこの付近に飛ばしておく。いや、ごめん。余計に気を動転させるようなことしてるけど、きっと君ならすぐ平静になれるよね、アルテミシアちゃん。
「ん、っ………ぅ」
身体が身じろぐ。そういえば、お腹に大穴が開いたままだった。
これに対処するには、そうだなぁ。シナモンの魔法でも使おうか。
うっすらと瞳が開く。口は無意識に動き、呪文を紡いだ。
「『古き美神の聖なる油 一時眠る死者の香………芽吹けよ、香り高きお前の名』」
かつてヘブライ人は、抽出されたシナモンオイルを聖油として用いていたという。そして、古代エジプトのピラミッドでは、ミイラの防腐処理にこのシナモンが使われたという。
古墳とか、或いはピラミッドっていうのは死者の復活を待つための一時の棺だ―――それに使われるということは、死の淵よりの蘇りに対して強い効果を発揮するということである。
ラベンダーなんかもピラミッドで使われていたというけれど、こちらは単純な治癒よりも恋愛に対する効果や呪い封じに特化している。なので今回はシナモンです。
「痛みは、あまり消えないけどね。仕方ない仕方ない」
さあ、瞳は完全に開き切った。腕を伸ばせば樹木も動く。これは俺の骨、俺の身体に相違ない。
下に視線を向ければ、ミーアちゃん達の姿が。何があったのかは、聞かなくてもわかる。
だから、ほら。この身体を削ぎ落とそう―――君たちに祝福を与えるために。
親愛なる友のためならば、寝顔すら赦す君のためならば、この痛みなど何を恐れることがあろう。
でも。
見られたらきっと怒られるから………気が付かない今のうちに、ね?
「………っ」
胸の左側に手を置く。そして、ゆっくりと掴む動作をすれば、あげた手に握られているのは―――真っ赤に燃える、心臓の息吹。
息を吹き描ければほら、それは瞬く間に別の形へと変化する。
驚くことじゃない、神話だって神々や或いはそれに類するものたちが、己の肉体を武具とする光景はありふれている。或いは、魔物の肉体から齎された武器なんかも多い。
草薙の剣や、ケルトに名高き魔槍ゲイボルグは怪物から生み出されたものである。
だから、俺の肉体だって同じようにすることは出来るのだ。
………死ぬほど痛いけどね?みんな、真似しちゃだめだよ。
「ふう。うん、ばれてないよね?」
息を一吹き。天使の羽根の如く、白と銀のサルビア、即ちセージの葉が舞い踊る。
少しだけ、もう少しだけ人間を辞めてしまったようである俺だけれど、この心根は何も変わっていないから。故に、友に対して語り掛けるのだ。
笑みを作りながら。少しの疎外感を、覚えながら。
―――君が驚いた顔をする。呼び出し、それですべてを悟ったような魔術師が呆れた顔をする。優しき子はまだ、眠りの淵。
手を差し伸べるにしても、何もかもが途中だ。なにもかも、中途半端だ。だから、ここは任せるね。
俺は、俺のやるべきことをやりに行くよ。
煙の空へ踏み出す。黒き妖精の影を背負った、遠き彼女の背を目指して。
「じゃあ、終わらせに行こうか」