精神回廊
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かつて人は夢を未来と結び付けた。あるいは真実に近き現実と。
古代の人々は幾つかの香草を使って夢を呼び起こし、それを用いて未来を占ったという。
………まあ、何が言いたいかというとですね、はい。
多分、現実で気絶したであろう俺は、恒例の如く夢を見ているということなのですよ。はい。
「まあ、今回の場合は仕方ないと思うけどね」
誰かの夢に共鳴したわけでもなく、誰かに夢を見させられたわけでもない。単純に、強い思念を受けたから、それを識っただけのこと。
水蓮の肉体に埋め込まれていた黒い弾丸を呑み込んだのも、その理由に拍車をかけているだろう。
呪いも魔法も結局、思いの塊だ。人間がなにかを為したいと思ったからこそ、それは発現する。いや、うん。あちらさんや土地によって引き起こされる災禍もあるけれど、それはさておき。
―――霧の鳥が先導する。
白い風景の中を。白銀の雪景色とも違う、霧煙る深く森の奥とも違う、それは迷路のような先の見えぬ昏き白色の幻想回廊。
記憶法の一つに、メモリーパレスというものがあるらしい。これは日本語に直せば、記憶の宮殿という。
日々の記憶を脳内に作り上げたその景色、その場所に保管することで、覚えたことを忘れないというものだけれど、もしも………もしも、記憶という人の子の頭蓋の中にある形無き宝物が、そのようにして保管されることが正しいのであり。
記憶の宮殿が、正しき記憶の積み上げ方であるが故に、記憶を忘れずに保管できるのであれば―――人の脳内を覗けば、その人間だけの世界に無数の記憶が散りばめられた風景が広がっているということになる。
きっと。その景色のことを、心象風景と呼ぶ。
「俺の世界がこんな風景だとは思わないけど………」
うん。実感ないからね。
多分これはユングの提唱した集合的無意識に近いものなんだと思う。つまりは人間や生物が持つ無意識の原初の姿。
誰がそんなたいそうなものを使って、俺に真実を見せているのかは分からないけどね。
人の無意識の根源に繋がっているということは、この場からであればどんな人間の記憶も見ることが出来るということだ―――そう、まるで俺が俺自身の頭蓋の奥に潜む全知たる”魔女の知識”の中に入り込んだかのように。
「ま、そんなのを好き勝手出来る存在は限られるから、分かるけどねぇ」
それについての思考はまた今度だ。さて、まずは見せようとしている夢に深く、意識を向けようか。
折角見せてもらえるんだから、見て帰るべきだろう。知らないよりは知っている方がずっといい。
無知は罪に非ず、しかし無知であり続けることは恥である………なんて、思うのですよ。
「おっとと、意識を、向けると………色々と情報が入ってくるなぁ」
記憶が形と質量を持つこの夢の中において、記憶の奔流は確かな熱量と威力を持って俺を襲う。
例えば。俺の実体がある果ての絶佳の周囲にいる女の子たちのこととか。水蓮の子の名前とか。
………妖精の国への入り方、多くが屍となっている盗賊団たちが何故、盗賊団を作り上げたのか、とか。
黒い兵器たちが、何を目的にして作られているのか―――とかね。
ああ。水蓮が空を駆ける。憎悪を纏い、肉体を解き、呪いに絡めとられて彼女は進む。人の優しさと、悪意に翻弄される定めを背負わされた悲しきあちらさん。
愛しい愛しい、遠き古き私の仔。
お前は子の幻影を追いかける。母ならば、子を追うのは当然だ。だが、それは君だけの意思ではない。
弔うだけの思いではない。ならば、なんだ。その背中に纏う黒色は、一体誰の差し金か。
腕を伸ばす。夢の中より、現実の水蓮に向けて、トリスケルの紋様が這い広がる真白き腕を優しく伸ばす。
―――そして、黒き靄に手を掛けた。
「もう一度訊こう。お前は誰だ」
靄が爆ぜる。爆炎にも近く、太陽の息吹にも似た、しかし純黒の炎煙。
耳の奥に響くのは、くぐもった笑い声。
男の物にも聞こえる、女の物にも聞こえる………そして、獣のようにも捉えられる、そんな声。
残念、何か聞ければと思ったけれど、これは本当の意味での残留思念だ。水蓮の夢に潜った時とは違う、呪いの弾丸にこびりついていただけのもの。
あの時とは違って言葉を交わすことは出来ず、レコードのように録音された思念を垂れ流すだけの物。
でも、情報源には変わりがない。
「ん。混ざってる………ああ、この弾丸を撃ち込んだ魔術師さんのものか」
この無意識がつながる迷宮だからこそ、なのだろう。黒霧の男の思念と実行犯である魔術師の男の思いが混ざり合い、映し出されている。
「―――なんで、あんたは俺たちを助ける………助けを乞うたのは確かに俺だ………だが、あんたは俺たちを、俺と娘を助けたところで、メリットがないだろう」
「さて。利点というものは大抵、気が付いたら生まれているものだ。或いは、知りもしない誰かの行動が気が付けば利となっていることもある。君の行動はまさにそれだ」
霧の奥に浮かび上がるのは歪な影絵。
魔術師の姿は黒い切り絵の如くしっかりと刻まれているのに、黒霧の男の姿は相変わらず靄に包まれ認識が出来ない。
この精神が繋がる世界においてすらモザイクがかかったような姿というのは―――うん、状況から見れば真実へと至る候補が幾つかあるけれど、まあそれは一旦思考の外だ。
唯一見えるのは、口に咥えた葉巻の様子。
緩く笑みを浮かべた黒霧の男は楽しげに煙を揺らしていた。
「俺は………妖精の心臓が欲しい。娘の命を助けるために―――だが、それによって、何があんたの助けになる………なあ、教えてくれ」
「知る必要はないとも。それは無駄な邪念というもの、引き金を引く指を震えさせることになる」
「―――知らずに引く方が、怖いんだよ!………知らなかったら、確実に俺は撃てないッ!仮にも魔術に身を置く人間だ、無知でいることが………怖いんだ、分かるだろ、あんたなら!?」
「すまないね、私は魔術師ではないのでその気持ちは理解が出来ない。だが、その心意気は買おう。魔術師の思考を理解していなかった私のせいでもあるからね、教えるとも」
どちらにしても、君は引き金を引くしかない。ならば、知っていても知らなくても、確かにどちらでもよいな―――と、心の底で嗤いながら。
その嘲笑いは誰に向けた物なのか。水蓮、目の前の魔術師?
それとも………それとも、人という存在に対してなのだろうか。
「妖精の心臓など好き勝手持って行くがいい。私が欲しいのは、その屍さ―――人に対する憎悪を重ねた、抜群の呪物だからね」
「………そんなものを、何に使うんだよ………」
「―――フフ。他言無用だよ、言えば君は死ぬからね」
靄から飛び出た指先には鋭い爪。
人差し指を口元に当てると、黒霧の男は魔術師の男に対してそういった。
ああ、確かに。その言葉で明確に魔術師には呪いが掛けられていた。このやり取りを知られれば死んでしまうという、単純ながらに強力な呪いが。
言葉一つで呪いを操る………魔法使いとしての力量はやはり、飛び抜けて高いのを確信した。
でも、まさかこの黒霧の男も、死者の意識を覗き見られることまでは想定していなかったのだろう―――随分と愉快そうに、語り始めた。
「原初の刻に世を戻す。黎明の夜で星を包む。我が一族の悲願のために………ね」
「黎明の夜………千の、夜に………?!」
「そうだ。冥府も天の階も、遠き異界も妖精の楽園も同じ場所に在った、龍が目覚める古の夜に、この世を戻す―――あの妖精の死骸は、その舞台装置として役に立つのさ」
心の底から嘲笑を。そして酷く懐かしげに―――ああ、そうか。
魔術師にこうして、水蓮に呪いをかけた理由を話しているのは、この魔術師が必ず死ぬと分かっていたから。
使い捨ての駒だからこそ、黒霧の男は意気揚々と語りかけたのだ。だって、本人にとってはただの独り言なのだから。
「憎悪を纏わせ世を覆う。大妖精の死骸でも流石に一つでは足りないが、それも数を増やせば夜の霧で世界を覆えるだろう。なに、そうなれば死者であろうと力づくで冥府から連れ帰れる。君は成功しても失敗しても、娘は助かるのだから問題はない」
「………千夜の魔女を、復活させる、ってのか………?!」
「いや?私は原初に戻すだけさ。千夜の魔女など、あれ本人については何の興味もないよ―――さあ、時刻だ。そろそろ準備に入れ」
魔術師の肩を叩くと、黒霧の男の影絵はふつりと消える。それこそまるで煙のように、一切の痕跡も思いの欠片も残さずに、消滅した。
この精神回廊においてすら、黒霧の男の影を踏むことは出来ないだろう。
そして、一人取り残された魔術師は俯き、取りつかれたような表情で、横に置いてあった古びた銃を手にした。
「―――仮に、世界を呪いで浸すとしても、やってやるさ………ああ、もちろんだ」
死に向かう決意を固めたその言葉を最後にして、今度は全ての影絵がその役目を終える。白と黒の仕掛け絵本はこれにて幕を閉じた。