赤帽子と過去の夢
「おーい!待って待って、そっちは本当に危ないよー!」
ミーアちゃんが走っていくのは森の奥地。
段々と緑の量が増えていき、夢全体を覆う黒色とは別に深緑へと風景が移り変わっていく。
単純に木々が増えてきたためだ。もちろん、既に整備された道はなくなっていて、木の根が露出したでこぼこ道へと変じている。
そんな場所をよくもまあ子供たちは転びもせずに走るなぁ、なんて感心してしまうけれど、流石にほのぼのした気分で見ているわけにはいかない。
「………血の匂いかあ。この辺りでそろそろ、悪夢へと変わるかな」
もうかなり悪夢っぽい、というか見ている人にとってはれっきとした悪夢だろうけど。
うん、まあサキュバスとかそういう―――俗に夢魔と呼ばれている者たちならば、こういう悪夢を無理やり良い夢に変えたりとかもできるんだけどね。ちなみに俺も魔法を使えば同じことが出来るんだけど、それをやるべきか否かは迷うところだ。
悪夢とは心の底に刻まれた呪いであり、そして忘れたくないという思いでもある。
ただ無作為に苦しいからと奪い去って良いものじゃないのだ。
それは、病気の症状だけを見えないようにしているだけだからね。
「っ、ぁ………!」
更に血の匂いが濃くなる。
いや、これは夢の中でミーアちゃんが出血したためかな。
おさないミーアちゃんが木の根に躓いて転び、膝に大きな傷を作っているのが見えた。………あれ、この血の匂いって。
「あー!ちょっと、きみこちゃん大丈夫?!」
「………私は、ミーア………きみこじゃない」
「そうなんだ、ミーアっていうんだね!………それより、足から血が出てるよ、ちょっと待ってて、今すぐに手当てを―――」
「………ッ!!」
少女の手がミーアちゃんの膝に触れようとした瞬間、ミーアちゃんが思いっきり少女を突き飛ばす。
「あぅっち!?」
「あ、ごめんなさ………ぅ、っ!」
「ちょ!また走るの?!待ちなさーい、ミーアちゃーん!!」
いたたまれないといった表情の後に、立ち上がってまた走り出すミーアちゃん。
それに驚いた少女もまた、一拍置いて十分に驚いてから追いかけていった。
小さな足音が響く………密かに、彼女たちの周りにあちらさんが現れていた。もちろん、夢の中のこの子達は気が付いていないし、多分夢を見ている本人も分かってないけれどね。
実はこの時にあちらさん達がいた、という事実だけが誰にも知られないまま、悪夢の中に潜んでいたのだ。
ピクシーたちが不安そうにミーアちゃんたちを見る。
ざわざわと翅を羽ばたかせ、何人かのピクシーが空へと飛び立っていった。
「はぁっ、はぁっ!」
「ま、ちょ、まって………ふぅ、はぁ………!」
如何に元気いっぱいの子供の時分と言えど、ずっと走るのは体力的に厳しいのだろう。
段々と二人とも息を切らし始め、足元がふらついて来ていた。
体力が削られ、それでも走らなければと意識を集中させていれば………まあ、当然のことながら他の事に意識を回すだけの集中力もなくなっていくものだ。
目を凝らせば幽かに見える、大地の境界線を二人が超えて。そして俺の耳に、俺だけの耳に翅が震える音が響く。
―――あぶないよ!
と、そう叫んだのはピクシーたちだ。
でも、この時のミーアちゃんはあちらさんが見えず、そして少女はあちらさんを見るための瞳を持っていなかった。
声は届かず、そして………地面が、ぐにゃりと抉れた。
「え、あ………え?」
「うわっ?!」
宙に投げ出されたミーアちゃんたちの眼前にはためいているのは、赤い帽子。
小さな老人のようにも見える身体つきに、毛皮の服。そして足は人のものではない烏の足。
それはレッドキャップと呼ばれる、人を嫌い、人を傷つけようとするあちらさん達の一種族―――その名はドゥアガー!
幻を見せ、人を殺し、その血を自らの帽子に染みこませることで帽子を赤く染めるというあちらさんの中の明確な敵対者………森が危ないと、そういわれていたのは奥に行けば行くほどに彼らがいたためだったのか。
もちろん普通の人にはドゥアガーが己で姿を見せようと思わなければ見られることがないため、視えない人たちからは奇妙な事故が多発するだけに思われただろう。
あちらさんの仕業だと、古老たちならば理解もしていようが、如何に人と彼らが近い世界でも直接見たことのないものの危険性を完全に理解することなどできない。
だからこそ結果的に伝えられたのは、この森の奥は危ないという情報だけだった。
好奇心旺盛な、或いは事情を抱えた子供がその先に行かないようにする絶対的な砦は、存在しなかったのだ。
「なん、で………地面が、なくなって………落、ちるっ」
「高いよー?!これしぬー!!??」
「い、や………たすけて………姉さん………、先生………!」
高さはおおよそ十メートルほどはあるだろう。ドゥアガーが幻によって崖を大地に見せかけていたのだ。
………そもそも、ピクシーたちが心配そうに見ていた時からドゥアガーの影は二人の傍にいた。小さな足跡が幾つも響いていたのは、その知らせだったのだ。
思わず、二人に手を伸ばす。けど、ただの夢の旅人である俺の手を二人はすり抜けて―――落ちていく。
人を嗤うドゥアガーたちが待つ、崖の下へと。
「………ごめん、ね」
「ふえ?」
空中でミーアちゃんが身体を捻った。
両手で力いっぱい少女を押すと、飛ばされた少女はギリギリ、崖の窪みへと吸い込まれ、何度か二転三転した後に起き上がる。
痛いだろうけれど、それでも擦り傷だけで済むはずだ。問題は、真下へと落ちていったミーアちゃんである。
「ミーア!」
「………ごめん、ごめん………なさい」
誰に、何に謝っているのか。
落下していったミーアちゃんは地面に叩きつけられ………鈍い音が発生する。
頭を打ったのだろう、どくどくと額から出血が発生していた。足は無事そうだ。でも、手の方は大分痛めつけられているようで、間違いなく罅は入っているだろう。
虚しく空を切った手を思わず強く握ると、頭を振ってミーアちゃんの元へと向かう。
夢だと、遠い過去だと分かってはいても知っている人が傷ついている光景は見ていて気持ちがいいものではない。
それでも、視ると決めたからには最後まで、だよ。
「キキ、ヒト、ヒトノコダ、コロセ、クエ」
「チヲ、ウバエ、ススレ、ノメ!!キキキ、キキキキ!!」
地面に倒れるミーアちゃんを取り囲むのは、三人のドゥアガーだ。
斧を持って動けないミーアちゃんをさらに傷つけようとしたその時、異変に気が付いてその動きを止めた。
「イヤ、デモ、マテ。ナニカ、コレ、オカシイ。………クサイ!コレ、コノチ、クサイ!!」
「………嫌い、妖精なんてきらい………いるんでしょ………みえないけど、聞こえる………」
空ろな瞳のまま、ミーアちゃんが小声で語り掛ける。鼻を摘まむドゥアガーたちへと。
「嫌い、大っ嫌い………しんじゃえ、しんじゃえ………しね、しね………おまえたちなんて、このよからいなくなれ」
―――そんな呪詛のような言葉を吐いた瞬間、ミーアちゃんから零れた血が沸騰した。