迎えられる手の中で
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そして、回転する赤子の頭が出口へと向かう。
分娩第二期と言われる、本格的な出産の始まりだ。いや、出産自体は今まで全部がそうなんだけど、ここからは赤ちゃんが実際に出てくるという状況になってくるわけだ。
骨盤を抜け、徐々に外の世界へと顔を出していくっていうのが普通なんだけど、初産だと長くても二時間くらいだろうか。
経産婦だと三十分から一時間で終わるというけれど。
「ハレアちゃん………お母さん、の手を握ってあげて?」
「う、うん!」
しっかりとナウィルさんの手を握ったハレアちゃんに微笑みつつ、ナウィルさんに視線を向ける。
「これから―――赤ちゃんが出てきます………無理しないで、言葉もいりませんから、呼吸をきちんとして痛みを、逃がしましょう」
「………っ………ぅ」
辛そうだけど、頷いたナウィルさんの腰の下に手を回す。
赤子を産むときには力を入れるけれど、その際にはお尻を押すと妊婦さんが力みやすく、出産がスムーズに行えるという。
「ふ、ぅ………ふぅ………!!!」
透き通る視界が赤子がゆっくりと出てきているのを確認した。
ちょっと速度が早いけど、まだ普通の範囲内だろう。きっとあと一時間弱でこの出産は終わる。
………水蓮が頑張ってくれたから、もう逆子ではない。そうなれば、俺の貧弱な知識量でもサポートできるはずだ。
そもそも逆子という変わった状況でもなければ、多少のアドバイスだけで後は自然に任せての出産が行えるのだ。もちろん、前後の補助は必要だが。
「おかあさん、がんばって………!!」
「………ふふ………っ」
ハレアちゃんも手を握っていてくれることが、ナウィルさんの不安を和らげる。
まあ、もう無事に出産できる状況が整ったといっても、実際に産むのであれば当然、怖いという感情が生まれるのは仕方がないことだ。
知らないものは怖い、初めてのことは怖い。それは人間が持つ防衛反応。
そして、その恐怖が対応をさせ、身体に覚えさせる………次の出産のときには心にも身体にも余裕が出来るのは、初産の経験があるからこそだ。
「吸って………吐いて………」
「す………は………」
汗が垂れる。俺の心臓はまだ止まったまま―――水蓮、君はどこに行ってしまったのか。
見えない。赤子が旋回を始めると同時に、水蓮の姿、力が溶けるようにして消えてしまった。辛うじて命と命を繋いだウィローの呪いが、あの仔と俺を結ぶ赤縄のように巻き付いていた。
でも、感じられるのはそれだけだ。その縄の先にあの仔がなんとか存在できている、というそれだけのもの。
きっとこのまま放っておけば、彼女は消えてしまう。それと同時に、弱っている俺の身体も呪いによって終わる。
それはちょっと、困るなあ。
一応この世界のお客さんのような人間の俺でも、死んだら悲しんでくれる人がいるし、それにここで俺が死んじゃったら、この後の出産処理とかどうするんだって話になるし。
「う、うぅ………!!!」
垂れた汗は背中を伝い、服をさらに濡らす。もうほとんど透けちゃっているね。
それだけ、時間が経っているということだ。
………つまり、ナウィルさんの出産がピークを迎える。
産道が開き切り、ついに赤ちゃんの頭が顔を出す―――さあ、止まった心臓はそのままだ、水蓮もきちんと救い出すけれど、まずはこの赤子を無事に産むことが第一さ!
「ナウィルさん、力を入れて………思いっきり叫んで!」
「い、ぅ………う、うう、うう―――!!!」
それと同時に、仰向け状態のナウィルさんの下に差し込んだ手で、お尻のちょっとだけ上の方を押す。
掌で押しているため、実際は広範囲を押している形になるけれど。具体的言えば尾骶骨周辺より下に指先が来る感じだ。
力んだ瞬間にそうやって力を入れてあげて、赤ちゃんを生み出す行為を補助する。陣痛自体が子宮の収縮、出産するために赤ちゃんを押し出す自然反応による現象だけど、それだけじゃ足りないからね。
唸り、力む。それに力を貸してあげて、さらに押し出しやすくする。
「がんばれ、がんばれ………おかあさん………がんばれぇ」
酷く痛そうなナウィルさんの顔をみてハレアちゃんが少し涙ぐんでいた。
頭を撫でて安心させてあげたいけど、ごめんね。お姉ちゃんまだちょっと、手を離せそうにないんだ。
「あと少し………です、また………息を吸って、吐いて………」
「あ、ううう………ふ、すぅ………はぁ………あっ、あああああ!!」
「大丈夫です、大丈夫―――ゆっくり、ゆっくりと息を吐いてください………!」
赤子の中で頭が最も大きい。それが産道を通るときには、力を抜かなければ痛みが奔る。
息を吐かせて、身体をリラックスさせるのだ。
人間は自然と、息を吐くと力が抜けるからね。それをしっかりと活用していこう。
「ふ………あ、痛みが………」
「………あ、れ?」
不思議と、痛みが軽くなったかのようにナウィルさんが言葉を発する。
リラックスしたにせよ、陣痛はまだ続いているのだ。ピークに入った以上、初産でそこまで余裕はない筈だけど………って、ああ。そうか。
水蓮―――まだ、そこで力を貸してくれているんだね。
「息を吐き続けて、ください………もう、すぐですから」
「は、い………ふ、ぅ―――」
うん………遂に、というべきかな。
何度かの呼吸を繰り返した後に、赤子の姿が完全に確認できるようになった。
そして、無垢なる子が叫びを、産声を上げる。
「―――!!!!」
残念なことに、色々と限界迎えている俺の耳は、響き続ける耳鳴りでその声を捉えられなかったけど。
「ふ、ふ………ああ、頑張りましたね、ナウィルさん………」
………長い、長い闘いの果てに、ようやく生まれたのだ、赤子が。
まだへその緒がつながったままの赤ちゃん………あ、女の子だ………こほん、それはともかくとして。
赤ちゃんのへその緒を、慎重に切って、清潔な布で包む。
良かった、俺みたいな未熟者でもなんとか助けることが出来た。
「ナウィルさん、ハレアちゃん。おめでとう、ございます」
丁寧に、丁寧に。赤子は壊れやすい宝物。繊細なガラス細工よりも慎重に触れて、ナウィルさんの元へと。
「―――ナウィルッ!!!ハレアあああああ!!!???」
「ひぁっ?!」
「うぇっ!??」
「あ、こんにちわ………」
赤ちゃんがナウィルさんのてを握った瞬間、家の扉が思いっきり開かれた。
―――赤ちゃん、泣いちゃうかなって思ったけど全然平気でした。この子きっとかなり大物になりますね?
と、まあ。それはいいか。
扉のほうを見れば、無精髭を生やした若い男性の姿が。
手には槍を。足は動きやすさと頑丈さを追求した、分厚い皮のブーツ。肩掛けの大きな鞄の中身は、今はすっからかんのようだ。
「ふぇ………おとう、さん?」
「そうだぞ、ハレア………!手紙がな、俺の元になぜか手紙が届いたんだ―――出産が近いっていう文章が、茨のような植物の透かし模様が入った便箋で!」
「………もしかして、マツリさん………?」
「―――出産に立ち会えないのって、絶対後悔するかなって思ったんです………お節介ですけど、ね」
胸を押さえながら、苦しさを誤魔化すようにして笑う。
そう、俺がずっと視界を飛ばしていたのは、この人の元へと魔法の蝶を向かわせるためだったのだ。
ちょっとだけ、間に合わなかったかもしれないけど、それでも誕生時に立ち会えたのは僥倖かな。
「それより、も。お名前を聞いても、いいですか?」
「あ、ああ!俺はジヴァン。しがない街飛脚で、ナウィルの旦那………そして、ハレアとこの子の父親だ。………ありがとう、えっと」
「マツリです………こう見えても、魔法使いです………まあ、経験は少ないですけど、あはは………」
「―――感謝する、マツリ殿。あなたのおかげで、俺は………俺は、ここに間に合った………」
歩幅も小さく、ジヴァンさんがナウィルさんのもとへ。ハレアちゃんを抱きしめながら、頬をナウィルさんの頬に当てて、そして生まれたばかりの安らいだ表情で眠る赤ちゃんに向けて微笑んだ。
………誠実な匂いだ。これがあったから、俺はジヴァンさんを魔法で追えた。
手紙蝶の魔法は、簡単な魔法であるからこそ、見知らぬ人を追うのは難しいんだけどね。そこは俺の嗅覚に頑張ってもらいました。うん、鼻が良くて助かった。
「お、とと」
視界が揺れる。身体がぐらつく。
水蓮と離れすぎている。物理的ではなく、存在的な意味で。
まだ、分娩第三期………つまりは後産と呼ばれるそれが控えているっていうのに。
ここでは気絶できない。というか気絶したら俺死んじゃうし。だから、魔法を使う。
誰にも気が付かれないように、小さな吐息と共に煙を吐いた。
それに満たされるのはセージの香り。救いの薬草、子を為す薬草。胎内に溶けた君を呼び覚ますには、丁度良いでしょう?
「”お前を………斬るよ 救いの花を……… よすがを辿り 道を通さん………”」
―――ぽつり、と。
ナウィルさんと、そしてまだ名を付けられていない赤ちゃんとの間に、雫が墜ちた。
それは人知れずに床へと染みて、俺の影と同化する。
「………お帰り、水蓮。頑張ったね」