流る妖精の手招く光
「あ………ッ………い、いた………?!」
「調子を合わせて呼吸してください!ヒッ・ヒッ・フーで三回に、最初の二回で短く息を吐いて、最後で長く息を吐くんです!」
「は………い………!ひ、ひ………ふ………ぅ」
ご存知、古くから使われている出産時の呼吸法であるラマーズ法だ。
このラマーズ法自体が、古くはロシアの奥地で助産師もおらず、病院もない状態で安全に出産するために考案されたものなので、こういう場合にはとっても役に立つんだよね。
ただ、このラマーズ法も陣痛の傷み具合に応じて若干吐き方に変動が出てくる。
今は痛みを逃がす段階だから通常のもので大丈夫なんだけど、感じる痛みが強く、長い場合であれば”フー”の方を増やしたりと臨機応変に対応しなければならない。
もう完全に出産態勢が整った場合においてはこれは使わず、ひたすらに強く息を吐いてもらうんだけど、今は水蓮がその最後の一息のために、赤ちゃんの体勢を変えている所だ。
―――ああ、わかるよ。水蓮の命がナウィルさんの身体の中に溶けているのが。
身体を持たず、元始の存在に近いものとなった水蓮がナウィルさんの胎内を巡っている。命の大河、源流となってあの仔は赤子に語り掛けているのだ。
「しっかりと………こほ………息を吐いてください。無理して息を吸わないで、自然に空気が入るのを待つんです」
「ふ、ぅ………ふう………すぅ―――ひっ、ふ………」
まだ多少、呼吸に乱れが生じているが、大分慣れてきたらしい。
段々と痛み、りきみの逃がし方が上手になってきている。
止まって、痛みを生み出す自分の心臓を殴りつけ、ナウィルさんのお腹に手を当てる。まあ、ね………任せるっていったって、まかせっきりにはできないでしょう?
少しは手伝って上げないと。俺がさっき慌てた時に助けてくれた、その恩返しってやつだよ。
「『月の女神の瞳の芽 蛇の過ぎゆく通りの葉 お前は子を待ち助けるもの………!』」
ほんのわずかに、ヨモギの香りが宙を駆ける。
古来ギリシャでは、貞節の女神にして月を司る神性であるアルテミスが出産する女性の手助けをするのに、このヨモギを大量に使用したという話がある。
アルテミスは処女神だ、童貞………もとい、処女のまま妊婦さんを助けているこの状況とアルテミスが出産時に手助けする状況は似ているし、きっと加護をくれる筈だよね。この世界にアルテミスという女神がいるかは別として。
この魔法は、お産するものとお産を助けるものに月の女神の力を与える魔法に他ならない。魔法使いの俺も今はあまり力がないから、こうして助けを求めたわけなのですよ。
―――そして。ヨモギは消毒剤としても知られ、防虫薬にも使われる。
それ故に古くからヨモギは玄関前に吊るされ、邪悪な霊や吸血鬼から身を守ってくれると信じられていたのである。
守護の力を持つ、邪悪を払う月の力。原初の命の形へと溶けてしまい、様々な要因を受けやすくなっている水蓮にはきっと役立つはずだ。
「………赤子の、態勢、が………」
変わっていく。胎内で手を伸ばし、くるり、くるりと―――。
***
存在しない手で”それ”を招く。
私の身体は世界に溶けて、落ちて消えて、そして在る。
我が子が辿った末路のように、しかし分岐を違えて今………私は、人の子を為すために命を懸けている。
なんとも、不可思議なことだ。
………声が出ない。
当然か、声を出す器官が存在していない。
水となった私は、母親ナウィルの中を巡る。血を流れ、命を流し、空気となって終に胎盤へと至る。
”それ”は―――赤子はまだ、彷徨っていた。
………そろそろ落ち着いたらどうだ。
赤子は踊る。光を求めて、しかし光を嫌って。
未知に惹かれる心と恐怖する心がせめぎ合い、赤子は光から眼を背ける。見えもしていないだろうに、よくもまあ認識できるものだ。
ああ、しかし。
少し困った。私は命に溶けている。もっとも単純で原始的な、融け落ちる前のそれへと変じている。
………見ずに、いることは出来ない。逃げることは………出来ない。向かえ、先へ。
徐々に声なき声も枯れていく。
私という存在が色をなくし、ただの命へと還っていく。
私の声は、これほど赤子の近くにいても届かない。腕を伸ばし、膝を丸め、光の反対側で目を閉じる赤子は、私の声を聞こうとしない。
胎内に満ちる水が減っていく。光の先へ流れ落ちる。
―――私は己の身を減っていく水へと変じさせた。
足りない。時間と私の命が足りない。なんともまあ、頑固な子だ………人間のくせに生意気なこと。
私の子を奪ったくせに、その私が助けてやっているというのに頑なに外を怖がるとは。
瞼が閉じる。私の命も透明になっていく。駄目か、これは助けることが出来ないのか。
悍ましく、憎たらしい人の子。懐かしき隣人にして愛おしき遠き子。それすら、私は救えないのか………?
………困った、子だ………。
完全に”世界を見る瞳”が閉じそうになる瞬間、清らなかな光の色が私を彩った。
月光、幽かに揺らめく灯火のような優しく、淡い白銀。
マツリか、私と命を共有しているため相当に身体が痛んでいるだろうに、よくやるものだ。
女神の加護、美しき月の光の夜の色。
不可視のそれが、赤子を染める。現実という色を知らぬが故に、その赤子は見えぬはずの光をしっかりと捉える。
無垢の認識力。無色という世界の中に、月光が墜ちた。
「――― ― ――― ―」
………ああ、そうだ。こっちだ。
赤子には眩いだけだった光に意味が宿る。
それは美にして尊きモノ。そして、なによりも温かい母の愛。
赤子はそれを見ようとして、その姿勢を変える。最後の踊りを舞い始める。
私はその手を取って、ゆっくりと………彼女を光の方へと向けた。
………さあ。―――進め。
背中を押す。
もちろん手はないが、私の意思がその代わりとなる。
少しずつ、赤子は進んでいく。新しい世界へと通じる光の向こうへ。
私もかつて辿り、我が子も辿ったその道を。
………そんな時も、あったな。
喪った傷はまだ癒えぬ。
しかし、人の営みに久しく触れた。まったく、何故復讐を誓ったはずの私が、人を助けているのか。本当に不思議なのだが、きっとあの変人な魔法使いのせいなのだろう。
あれはどこまで見えているのか。時に慌て、時に悟ったような目をして―――時に、人ならざる眼をするあの少女。
この赤子と同じくらいに、なんとも放っておけない奴である。
………戻らねば………な………。
浮上し、命の川から身体を作り直さなければならない。
そう思ってはいるのだが、長く溶けてしまった身体は動かない。
姿なき命の水のままで、私に宿った月の色も徐々に薄まっていく。
―――最後に見えたのは、私が背中を押したあの赤子が、光の向こうへと出ていく様子だった。
先週は投稿できず申し訳ありません!
今週からまた、行進を再開していきたいと思いますので、どうぞよろしくお願いいたします。