早期破水
「まあ、仮に間に合ったところで出産自体に関係はないんだけどねっ」
「………は、はい………?な、にか………」
「いえいえ何でもないです!」
余計なこと言ってしまった、これは俺の中だけに仕舞っておかなければいけないことなのに。
やっぱり気が焦ってるぁ。まだまだ、元の俺に戻るんだ。
俺は透視できるから、外回転術に挑戦してみるべきだろうか。………だからリスクが高いんだって、駄目だ。
というかこの時代じゃどんなに経験豊富な人でもそれを手段として取る人はいないと思われる。
帝王切開と同じくらい未知の技術の筈だからね。だって超音波機がないから、赤子の様子を見られない。
もしもそれをやって、元に戻せないまま破水を誘発させたら終わりだ。不用意なことは避けるべきだろう。
―――ああ、うん。これは、もう………。
俺だけではどうしようもないんじゃないかという気持ちが、心の底にたまってきた。
「―――マツリッ!!」
「え、な、なに水蓮………?!」
「よく見ろ阿呆!もしや鼻もつまったのか」
「………っ?!」
水蓮にせっつかれて思わず鼻で息を吸い込むと、少しだけ生臭い香りがした。
意識していなかったその香りに、俺の脳内にある”魔女の知識”が勝手に開き、匂いの正体を俺に知らせる。
アンモニアとは違う香り、少量ずつ漏れ出ているそれは………羊水?!
「まさか、早期破水!?」
「そうだ。………すぐに出産が始まるぞ」
「い、いやいやいや、始まるぞって言ったって………!!」
早期破水とは、俺が一番心配していた前期破水に分類されるものなのだが、特に陣痛中、まだ赤ちゃんの通り道である子宮口が完全に開き切っていない状態で破水してしまうことを指す。
本来の破水の時期は、もう完全に出産の準備が整ってからになるがこうして開き切る前に破水が起こってしまう事例もあるのだ。
早期破水は前期破水に比べれば危険度は少なく、余程この後に時間が掛かるのでもなければ細菌感染の可能性も少ない。通常なら、陣痛が強くなり、このまま分娩が開始される筈だ。
―――しかし、ナウィルさんの場合はとても大きな問題が残っているのである。
「まだ駄目だ、逆子が治ってない!!」
「馬鹿。今更出産を止められるものか!」
「そうだけど………」
「あ………の、えっと………?どう、しました、か………?」
その声で、当の本人を置いてけぼりにしているのに気が付いた。
ナウィルさんの破水はとても少量ずつ漏れだしているため、何が起こっているのかまだ分かっていないのだと思われる。
股のあたりを気にして頬を染めているのは、漏らしてしまっていると勘違いしているのかもしれない。
あれ、ちょっと待って。もしかして、ナウィルさん。
「痛み、悪化してない、ですよね?」
だって、俺は魔法の調整を変えていない。普通、早期破水が起これば陣痛がピークになり、痛みが発生する筈なのだ。
幸いと言っていいのかは分からないが、ナウィルさんは既に十二時間程度、陣痛と戦っている。初産の場合でも、早ければその時間で出産する人も存在するため、通り道が狭くて通れないという普通の問題はそこまで深刻にはならないだろう。
実際失礼を承知で覗きこんでみれば、加速期が大分早く進行したようで極期に近い大きさになっていた。………早期破水ではあるけど、まだ適時破水よりといえるだろう。それ自体は助かった。
でも、問題は別にある。
「は、い………変わ………って、ない………です」
「おい、マツリ。陣痛を誘発しろ。赤子が死ぬぞ」
破水が始まっても陣痛が悪化していないということは、子宮の収縮作用が不完全だということだ。
つまり、赤ちゃんを押し出す力が足りていない。水蓮の言う通り、このまま放っておけば細菌感染のリスクだけが高まるため、魔法や薬草でナウィルさんの陣痛を誘発しないといけないのだが、しかし。
このまま、陣痛を起こせば確実に逆子のまま出産が始まってしまう。今の体勢は出産成功確率が非常に少ない体勢から変わっていないのだ、陣痛は起こせない。
………でも放置しておけば赤ちゃんがどんどん危なくなる。
「どう、しよう。………なにも動けない」
「―――しっかりしろ、魔法使い」
「でも魔法じゃ助けられないよ………俺は医者じゃない」
ああ。ここに来て初めて、本当に自覚した。魔法は決して全能じゃない。万能でもない。
出来ないことは、出来ないのだ。
もちろん、魔法でしかできないこともある―――でも、医術や科学でしかできないものも、ある。
「すいれん………すいれん、どうしよう!」
「泣くな、馬鹿者―――おい。おいマツリ」
泣いてない、ちょっと困ってるだけ。
目を乱暴に拭えば、視界の端でハレアちゃんも泣きそうな顔をしていた。年上の俺がなんて無様なことしてるんだ、情けない。
首を振ると、真っ直ぐに水蓮を見上げた。
「水蓮。お願い、助けてほしい」
ただ、ただ素直に乞い願う。人の隣人である彼らに。母親であった君に。
君は少しだけ笑みを浮かべると、とっても仕方がなさそうに言った。
「ふん、約束だ。私がどうにかしてやる。だが、お前にも負担がかかる。いいのか。もしかしたら死ぬかもしれないぞ」
なんだ。そんなこと?
「いいよ。やって」
「………そういう所だ、馬鹿マツリ」
水蓮の指が俺の額を叩き、その身体が解けた。
まるで水のようになった身体が、ナウィルさんを包むようにして被さり、そして溶け込んだ。それを見た瞬間、俺の心臓に強い痛みが走り、思わず蹲る。
「お、おねえちゃん?!」
「あ、あはは………大丈夫、うん。―――大丈夫だよ」
「あと、あと!おねえさんのほうもきえちゃったけど………」
「そっちも何の問題もないよ。あの仔を信じてあげて」
痛みの最中、俺は水蓮がやろうとしていることを理解する。
君もなかなか無茶をするじゃないか。まあ、傷だらけなのに復讐するために動こうとしたんだから、無理をする気質なのは知っていたけど、それでもまさか、他人の中に己の命を溶かすとは俺でもあんまりやらない手段だよ?
あちらさん。人間が呼ぶところの妖精というものたちは本来、この次元の肉体を持たない。物質界よりは精神界などに近い存在である彼らは、高位であればあるほどに現世にも干渉できるが、それと同じくらいにこの世から存在を浮かせることも出来るのである。
淡く、薄く、存在を引き延ばし、命を溶かせばやがては世界の源流に至る………その源流の概念は人間にはよく理解できないかもしれないが、命の流れ、地脈やら霊脈やら言われているものに関係のある言葉だと理解してもらえればそれでいい。
いつかそれについて話す機会があるかもしれないけど、今そんな時間はないからね。
話を戻そう。水蓮は自分という存在を薄め、ナウィルさんの中に溶け込むことで未だ胎内で彷徨っている赤子に干渉しようとているのだ。
赤子は人間よりも精霊やあちらさんに近い自我を持つ。まだ胎内にいるのであれば尚更に、溶けて源流へと近づいた存在なら、その精神に強く働きかけが出来るということだ。
やっていることは簡単、精神体になって話しかけることで、自我の薄い赤子の姿勢を出産が始まる前に本来の正常位に戻そうとしているわけである。まあ、存在を薄めるというのは人間に例えれば水の中で自分の身体に大きな傷をつけ、血の大半をぶちまけるに等しいので、「何やってんの君」って言われるだろうけどね。
「水蓮、が………助けるって意思を決めたのなら、俺もやらないと………!!」
ついでに言うと、ウィローの呪いで命を共有している俺は、水蓮のその行動によって呪い返しが発生している。
心臓が痛むのはそのせいだ。うん、ぶっちゃけさっきから心臓止まっています。水蓮がそれだけ危険な行動に出ているって証拠だね。
でも、心臓が止まったくらいであの仔の頑張りを無駄に出来るものか。
広がり始めたトリスケルの紋様に目線を落としてから、俺は香りの魔法を使った。
「『満ちて開いてまた満ちよ、我が名の花が、白き祈りと呪詛を撒く』」
物騒な呪文なのはご勘弁、実際お母さんにとっては呪いみたいなものだからこうなってしまった。
「ナウィルさん、痛みが強くなります………一緒に、耐えましょう」
「―――わ、かり………ました。とう…とう………始まる、の………です、ね?」
俺もちょっと声出すのが辛いので、頷いて肯定する。
視界を調整し、左目で透視を、右目で現実を見ることができるようにすると、透視の左目が胎内の赤ちゃんが徐々に、態勢を変えているのが見えた。
………普通、この時期になったら赤子の姿勢は変わらない。水蓮のおかげなんだろう。
羊水は依然として漏れ出している。段々と勢いも強くなっているため、もう出産を待つことは出来ない。
「………始めます………!」
「は………い………っ!」
そして―――魔法が弾けた。