不安の時間
この仔には何が見えているのだろうか。
何度言うけれど、あちらさんの思考、視線は人間とは違う。半分人外の俺とも、少しだけ違う。俺はチャンネルを合わせるようにして同じ視線になることも出来るけれど、それはあくまで可能だというだけの話。
魂、あるいは領域の外の生命ともいうべき、本質的に物質界に肉体を持たない者たちの見るその景色………水蓮、君は何に、いや。
―――誰に、視線を合わせているのかな。
「うん、まあそれはさておこう」
この仔はナウィルさんに対して酷いことはしないから、きっと何か役に立つことをしてくれるだろう。
そのついでに俺にダメージが来るような気もしているけれど、それはしょうがないかな!
「まだ破水はないみたいですね」
「破水、というと、あれ、ですね………お腹から、水が出るという」
小刻みに呼吸をしながらナウィルさんが答える。
正確に言うと胎内の羊水が溢れ出てくるため普通の水とは違うのだが、この時代には細かい話は必要ないだろう。
大体この破水というものは出産のピーク、赤ちゃんが出てくる間近に起こるのだが、俺が当初心配していたように前期破水という可能性もあった。あまりに早すぎる破水は赤ちゃんに細菌感染を引き起こさせる危険があるので、今回はまだその兆候がなくて良かったといえるだろう。
正直に言えばこれ以上、厄介な出産状況になってほしくないのだ。うん、俺の対応力が足りるかどうかの瀬戸際なので。
「すいません、マツリさん、少し………喉が、渇きました………」
「はい、コップに………あ、ちょっとこの紙を失礼」
冷水の満たされた大きめの瓶から水をくむと、机の上にあった紙を借りる。
魔法の吐息を吹きかけて、汚れを強制的に吹き飛ばすと、宙に放り投げて指を振る。すると、みるみるうちに形状が変わり、細長い筒状の棒になった。
うん、ストローだよ。ちょっと手早く錬金術使いました。このくらいなら前準備無くても薬草魔法とかの応用で何とかなるね。
紙の形を変えて飛ばすのはちょくちょくやってるし。
そのストローをコップにさして、先の口をナウィルさんに向ける。
「ゆっくり飲んでくださいね。慌てなくていいので」
「は、はい………ん、………ぷは………ありがとう、ございます」
「良いんですよ、このくらい。俺の仕事ですから。どんどんいってくださいね」
「ふふ、はい………」
ちなみに冷水とぬるま湯はそれぞれ水霊ちゃんと火蜥蜴君に温度を保ってもらっているので、いつ使ってもいい温度となっている。
今日はあちらさんにもたくさん手伝ってもらうよ。まあ、この仔たちって基本的に子供が生まれるの好きだからね。好きが高じて取り替えたりしちゃうけどね。
ピクシーたちは生まれることのできなかった子供たちが存在の元になっているとも言われているため、特に赤子には優しい。いつの間にか子供に祝福を与えて、でもそのことを忘れて去っていってしまうことも多いんだよね。
大抵の場合、親が知らずにその祝福、加護の発動条件を破って痛い目に合ったりするけど………まあ、この世界じゃご愛嬌ってやつだろう。
「う………い、たたた………」
「あ、ナウィルさん!大丈夫ですか?!」
「は、はい………痛みが急に増しただけで………」
それは大丈夫じゃないですよっ!
お腹に触れて胎動を確認する。………随分と下の方が蹴られている感じがする。
まだお産は始まったばかり、陣痛が悪化するのはしばらく先だから間違いなく蹴られているのが痛みの原因だろうけど、それよりも―――大分、楽観視できない問題が見つかってしまった。
アイブライトの香り。吐息によって発動する魔法を使って、もう一度”内部”を確認した。
ああ、最悪だ。前に見た時は、胎内の赤ちゃんの格好はお尻が突き出た、単臀位という状態だった。これは両足が上にあるため、比較的自然分娩でも出産がしやすい格好だったから無理をしてまで治すリスクよりも母子の健康を取ったんだけど、今見た時………赤ちゃんの格好が全足位という形になっていた。
ナウィルさんの赤ちゃんは、適正体重よりも小さいから足が動くだけの余裕が出来てしまったのだろうか。いや、逆子の出産の場合、途中で赤ちゃんが自分の身体を動かして手を伸ばしてしまうこともあるからそればかりが原因とは言えないけど。
とにかく全足位、即ち足がほとんど伸びた状態で下を向いていて、足から出てくる体勢になってしまっているというのはかなりの大問題だ。
確か、この場合の自然分娩の成功率は三十%を切っていたはず………そもそも逆子の取り上げは熟練した技術者が必要だというのに、危険度の高い体位になるなんて。
出産は、赤ちゃんの通り道と陣痛、つまるところの子宮が赤ちゃんを押し出す力の二つが揃って初めて出来るようになる。
このうち、赤ちゃんの通り道である子宮口は、出産に合わせて最大十センチ程度にまで広がるそうだ。しかし、何度も言うが、初産の場合はその広がりに時間が掛かる。具体的な数値を出せば、今の潜伏期は二センチから三センチまで広がり、そこから訪れる加速期で四センチまで膨らむのだけど、初産の時はここまで広げるのにもっとも時間を使うというわけだ。
そもそもが広がりにくい初産だというのに、体勢的に頭が挟まって窒息状態になりやすい逆子………現代だったら単臀位以外は全て帝王切開で済ませるのが最も安全な方法だった。
「………でも、ここは異世界………」
帝王切開した後に縫合できるだけの技術を持った医者もいなければ第一に設備も道具もない。
頼られたのは経験不足の魔法使いが一人と、経験のあるあちらさんが一人。二人で、何とかするんだ。異世界だからとか、道具も人もないからとか、いいわけにもならない。
俺が、この依頼を受けると自分で決めてここまで用意したんだ、ならやり遂げないといけない………!
でも、どうする?この状態で赤ちゃんの体勢を変えることなんて外部要因では不可能だ。祈って自然に変わってくれるのを待つ?そんな馬鹿な、希望的観測にもほどがあるでしょう。
ナウィルさんの体調を確認しながらどうにか方法を探ること、数時間―――空になった水を持ちに行ったり、ナウィルさんの汗を拭いたりしていたけど一向に解決策が見つからない。
そろそろ潜伏期も終わってしまうかもしれない。
先も言ったけど、初産でも人によっては九時間以内で終わるのだ。長ければ約一日丸ごとかかるけど、そればっかりは人それぞれだから断定はできない。
潜伏期が終われば、陣痛の間隔も長くなる加速期だ。これ自体は三時間ほどで終わってしまう。さらにその後にある極期と減速期というものも大体一時間ずつなので、最低時間で見積もれば五時間以内に解決しないといけないわけだ。
翠に輝く瞳で内部を見るけれど、依然として赤ちゃんは足を延ばしたまま。
垂れそうになる汗を服で拭ってから、不安な気持ちを押し殺してナウィルさんに笑いかける。
「痛みは大丈夫そうですか?」
「は、い………全然、耐えれます………ふふ、これ、なら………包丁で、手を切った時の方が、痛いです、ね」
「………あはは、無理はしないでくださいね、本当に」
不安なの、見透かされちゃったかも。まだまだだなぁ、俺
「お、おねえちゃん………だいじょうぶ、だよね………?」
「も、もちろん………大丈夫!」
こんな小さい子にまで不安伝播させちゃってるし!ああもう情けない!というか俺らしくもない!
空元気でも出すんだ、暗い気分になったところで名案なんて浮かぶ筈無いでしょう!
―――でも。安易に、魔法に頼るしかないんじゃないかって。
そういう思考は、背中から這い上がっていた。
「マツリ」
「………っ?!」
背中を優しく擦られる。かふっ、という小さな音………ああ、俺の呼吸の音だね。
結構、過呼吸気味だったんだなって気が付いた。